じじぃの「カオス・地球_243_関眞興・ドイツ史・ヒトラー登場」

Adolf Hitler: Speech at Krupp Factory in Germany (1935) | British Pathe

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FJ3N_2r6R-o

一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国
2 オーストリアプロイセン
3 動乱のドイツ連邦
4 近代ドイツ帝国

5 ワイマール共和国からナチスドイツへ

6 連邦共和国と民主共和国

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『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

5 ワイマール共和国からナチスドイツへ より

ヒトラー登場
1923年、アドルフ・ヒトラーバイエルン地方のミュンヘンで決起し、ベルリンへの進軍をくわだてましたが、失敗に終わりました(ミュンヘン一揆)。ミュンヘンバイエルン地方の中心都市で、保守的な考えを持つ人がたくさんいました。ナチスの前身であるドイツ労働者党が結成されたのも、この都市です。

シュトレーゼマンは、ミュンヘン一揆への対応を批判され、内角不信任案を出されて首相を辞任。ですが外相に就任し、諸国との関係改善をはかりました。それが功を奏し、1924年から29年までドイツの対外関係は安定します。

ナチスが大躍進!
1929年10月、アメリカのウォール街での株価暴落から始まった恐慌(きょうこう)は、すぐにヨーロッパにも広がっていきます。アメリカを始めとする国々は、それまでドイツに投資していた資本を引き揚げました。それでも大恐慌の初期には、ドイツ経済はしばらくは単なる不況程度でした。

しかし、1931~32年になると経済状況は明らかに悪くなり、労働者の給料が減らされ、失業者が増加するなどの問題が起こります。不況が深刻化するなかで成立したブリューニング内閣は、緊縮財政とデフレ政策、および増税によって事態を乗り切ろうとしますが、議会が反対。首相のハインリヒ・ブリューニングは議会を解放し、総選挙に打って出ます。

この選挙で賠償問題への不満を訴えかけて大勝をおさめたのがナチスです。それまでの12議席から107議席と大幅に議席を増やしました。このナチスの勢力拡大により、ワイマール共和国は実質的に崩壊しました。

1931年、ドイツは不況を理由に賠償金の支払い拒否を宣言します。これに対し、アメリカ大統領フーバーは1年間の支払い猶予を発表しました。

翌年のローザンヌ会議でドイツの主張は認められ、賠償額は30億金マルクまで減額されます。しかし、1933年に全権委任法を可決させて最高権力者となったヒトラーは、その提案も拒否しました。

賠償金の減額交渉が始まったころは、ブリューニングが代表を務めていました。ところが、ヒトラーが権力を握ると、ブリューニングは首相の座を退きます。減額を勝ち取った功績はヒトラーのものになり、ナチスの評判を上げることになりました。

若者が多かったナチス

ナチスが成功した理由はいろいろありますが、第1次世界大戦で敗れて自尊心を砕(くだ)かれたドイツ人の幅広い層に、復権を訴えて支持を得たことが一番大きいでしょう。

SA(突撃隊)、SS(親衛隊)、ヒトラー・ユーゲント(10~18歳のナチスの少年組織)、鉄兜(てつかぶと)団などの大衆を動員した組織を使い、街頭宣伝やキャンプ、集会などにより支持者を増やしていったことも成功の理由です。

ナチスは伝統的に社会民主党共産党が強い地域や、中央党支持者の多いところでは簡単に支持者を集めることはできませんでした。しかし、地域に根ざした政党ではなかったため、全国的に幅広く支持を集めることができました。

この時代、あらゆる階層の人々が、国際的に弱い立場となったドイツの状況に不満を持っており、国民感情に訴えかけることは簡単であったと考えられます。

ナチスの党員・支持者の多くは40歳未満という”若い党”でした。激動の時代に育った若者たちが、それまでのエリートや名門が支配する社会に抵抗するという一面も持っていたため、同調する多くの仲間を集められたといえます。

このことを裏づけるように、多くの貧しい人々は、ナチス暴力装置であるSAやSSに吸収されていきました。