じじぃの「習近平・TPP参加検討・中国の思惑と経済戦略とは?プライムニュース」

バイデン氏 国務長官オバマ前政権で国務副長官歴任のブリンケン氏指名か(2020年11月23日)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bWBIJbuWhE4

プライムニュース 「桜を見る会疑惑捜査へ 菅×王毅会談の成果は」

2020年11月25日 BSフジ
【キャスター】竹内友佳、反町理 【ゲスト】薗浦健太郎(前首相補佐官 元外務副大臣 後半)、興梠一郎(神田外語大学教授 後半)、朱建榮(東洋学園大学教授 後半)
中国の王毅外相が24日に来日し、茂木敏充外相と会談を行った。25日には菅義偉首相と会談を行う予定だ。
尖閣諸島周辺の接続水域で中国の公船を確認した日数が300日を超えるなど、中国の脅威が増す中、日本側は懸念を伝え、率直な意見交換をしたい考えだ。
アメリカが政権交代で揺れているこのタイミングで来日した王毅外相は、何を伝えに来たのか。そこにはどんな本音が隠れているのか。
王毅外相来日に見る中国の本音 尖閣問題発言で日中は?
茂木氏は11月24日の記者発表で、「尖閣周辺海域に関する日本の立場を説明し中国側の前向きな行動を強く求めた」と強調した。
王毅外相は、「ここで1つの事実を紹介したい。この間、一部の真相が分かっていない日本の漁船が絶えなく釣魚島(=尖閣諸島の中国名)の周辺水域に入っている事態が発生している。中国側としてはやむを得ず非常的な反応をしなければならない。われわれの立場は明確で、引き続き自国の主権を守っていく。敏感な水域における事態を複雑化させる行動を避けるべきだ」と発言した。
日中外相会談後の日中外相の記者発表における発言は中国政府のHPで尖閣問題の話しは無かったことになっている。
薗浦健太郎、「このHPの中身を紐解くと、日中は長期的なパートナーだとかプラスのことばかり書いてある。経済的な話についても日本側がここまで話したかというもの以外にも並べて書いてある。成果面を強調する必要があった。王毅外相の発言は明らかにこれを損ねている。中国国内のナショナリズムに火がついて抑えきれなくなることを恐れて国内向けにはこの話をしない、ただし対外的には主張するという立場を取ったのでは」
習近平サプライチェーン、コロナについて言及。
興梠一郎、「ホットラインの話が成果の6番目として書いてある。尖閣のせの字も出てこなう。全部経済の話」
朱建榮、「国内向けという話ならなぜ外務省のHPに載せないのか。領土問題は火がつく、日本で既に火がついている。中国の若い世代はSNSで本当に火が付きやすい」
薗浦健太郎、「そもそも仕掛けてきたほうがそろそろ落ち着きましょうというのは我々は受け入れられない」
習近平主席「TPP参加検討」 中国の思惑と経済戦略とは
中国・習近平国家主席APEC首脳会議での演説(11月20日)を紹介。
朱建榮、「RCEP(東アジア地域包括的経済連携)にようやく参加したところでTPP(環太平洋経済連携協定)というのは、高い基準というのは中国が現時点で満たしていない。これからはTPPという基準をもって中国の改革を進めていくと」
興梠一郎、「RCEPがインドが入らなくても中国が入れたというのは向こうで大きく報道している。韓国と日本が入っていて中国が入ってくる、そこに米国がいない。ここで1つポイントを取った」
TPPの主なルール(投資、関税手続き、電子商取引、国有企業、知的財産)について一覧。
興梠一郎、「ベトナムを1つのモデルケースにして、ベトナムが色々改革していくなら中国もやりなさいという意味合いがあったが、それが米国が抜けてしまい日本が引き継いでやっている。1つの問題は、WTOですら中国は入ってやっていない。WTOのメンバーシップを守っていないということで問題になっている。ルールが変えられてしまう可能性がある」

【提言】 「今後の中国への向き合い方」

朱建榮 「十年後を見越して」
 10年前の中国と比べると経済は3倍になっている。日本はアドバイザーとしてTPPで中国をよい方向に変えていく。
興梠一郎 「徳不狐 必有鄰」
  尖閣問題でもおおらかに。徳は孤ならず必ず隣有り。本当に徳のある人は孤立したり孤独であるということは無い。中国と関係のよい国がどれほどあるか。日本にはオーストラリアからわざわざやってくる。日本はネットワークで友だちを増やしていく。
薗浦健太郎 「したたかさ」
 日本の主張はどんなことがあっても曲げない。
https://www.fnn.jp/subcategory/BS%E3%83%95%E3%82%B8LIVE%20%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9

じじぃの「歴史・思想_381_物語ベルギーの歴史・第二次世界大戦・中立政策」

King Leopold Iii (1930-1939)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tpCtdr5mZiw

Leopold III of Belgium

ベルギー/ベルギーの独立

世界史の窓
第二次世界大戦
ナチス=ドイツは、1940年5月10日、同時にオランダ・ベルギー侵攻を開始した。
国王レオポルド3世は徹底抗戦を決意し、自ら総司令官として指揮を執ったが、わずか18日でドイツに無条件降伏し、捕虜となった。ピエルロを首班とする政府は降服を拒否し、国王の権利を剥奪してロンドンに亡命政権を立て、国内のレジスタンス運動を指導した。ドイツ占領は1944年まで続き、8月から9月にかけて解放された。戦後、レオポルド3世の復位を認めるかどうかは国論を二分する大問題となった。
●国王の戦争責任問題
レオポルド3世は、政府から国王としての権利を剥奪され、ドイツ軍の捕虜の身でありながらヒトラーを訪問し、ナチスに対して好意的な態度をあらわした。44年にベルギーが解放されたが、ドイツ軍は撤退にあたってレオポルド3世を連行し、オーストリアに軟禁した。45年5月、ようやくアメリカ軍によって解放されスイスに移されたけれども、ベルギー国内世論は彼の復帰をめぐって二つに分裂した。北部農民層はカトリック教徒のフラマン人が多く、国王の復帰を支持し、南部鉱工業地域のワロン人は国王の退位を要求した。1950年、国王の復帰を認めるかどうかの国民投票が行われ、57.6%で復帰が支持された。7月に6年ぶりに国王が帰国したが、ブリュッセルの街には「国王万歳」と「国王打倒」の声が入り交じり内乱の危険さえ生じた。その状況を見たレオポルドはついに退位を決意し、翌年に皇太子ボードウァンに王位を譲った。
https://www.y-history.net/appendix/wh1201-013_1.html

『物語ベルギーの歴史 - ヨーロッパの十字路』

松尾秀哉/著 中公新書 2014年発行

レオポルド3世と第二次世界大戦 より

ファシズムの台頭

1932年以降の経済危機は、議会制民主主義への批判を高めていった。あらゆる政策が功を奏することなく政権交代が続く。戦間期22年間で19回の政権交代が生じた。政局の不安定化は従来の政党に対する不信を高め、さまざまな新政党が台頭するようになった。既成政党にとってもっとも脅威だったはサロンやブリュッセルで台頭したレックス党である。レックス党は、ルーヴェンカトリック大事学のカトリック青年活動家団体を母体としている。
ドイツにおけるヒトラーの脅威が高まったこの時期は、同時にベルギー人の愛国心が高まりを見せた時代でもあった。そしてその愛国心はオランダからの独立戦争の記憶と歴史を蘇られ、かつてオランダとベルギーを分けたカトリックの信仰心をも高めた。他方で、前述のようにフランデレンの分離主義運動も高まっていた。

レオポルド3世の独自外交

アルベール1世の事故死によって1934年に即位したのは息子レオポルド3世(1901~83)である。33歳のときであった。背の高い。青い目とブランドの髪の美男として王子のころから評判であった。何をしても弟シャルルより秀でており、弟は「兄に勝るものは、成績がクラスで下から2番目だった私には何もない」と日頃から口にしていた。
彼は1926年にスウェーデン王室のアストリッド妃(1905~35)と結婚した。当時彼女は清楚な美女としてヨーロッパ中の注目を集めていた。ゲルマンの血をひく血をひく彼女との結婚は、フランデレンとの関係を好転させるのでないかと期待が広がった。
また、レオポルド3世はベルギー史上初めて(誓約だけではなく)即位挨拶をフランス語、オランダ語の両語で行った。
    ・
レオポルド3世は1936年10月14日の閣議で、ベルギーの外交政策の変更が必要であると訴えた。フランスに従属しない、独自の外交政策への転換を主張したのだ。ヴァン・ゼーラント首相、ポール・アンリ・スパーク(1899~1972)外相は、そのスピーチを公にすることにした。
国王の「独自外交路線」の背景には、1920年に結んだフランスとの軍事協定があった。ドイツで台頭するヒトラーは、第一次世界大戦の遺恨もあり、フランスに強い敵対心をも;つていると考えられていた。ベルギーとフランスとの軍事協定は、ベルギーをヒトラーの「標的」にする恐れがある。だからこの軍事協定は破棄しなければならないと国王は考えたのである。だからこの軍事協定は破棄しなければならないと国王は考えたのである。
ドイツの新聞は彼の「独自外交」を、フランスからの離反と解釈して讃え、フランスの新聞は裏切りと非難したが、彼はただ父の路線を継承し、ベルギーを守ることを最終先に考えていた。そして、彼にとってベルギーを守ることは、徹底した「中立」に立つことであった。

行き過ぎた中立政策

1939年9月1日にドイツ軍がポーランド軍ポーランドに侵攻すうとイギリス、フランスが宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。翌40年4月、ドイツがスウェーデン、ノルウエーに侵攻すると、イギリスとフランスはドイツがベルギーに侵攻することを確認し、フランス軍とイギリス軍の常駐をレオポルド3世に依頼した。いずれもベルギーでナチスを食い止めるためである。
しかし「ベルギーを守る」ことを使命としていたレオポルド3世は怒り、「国境にのみ」群の常駐を認めると返事した。そしてベルギー領内で兵士をみかけたら、イギリスだろうがフランスだろうが射殺すると返事した。彼はベルギーを戦場にしたくなかったのだ。ベルギーを破壊する者は、ドイツもイギリスもフランスも同じ存在とみなしたのである。それが彼の中立政策だった。
しかし、この返事に、フランス首相のポール・レノー(1878~1966)は「われわれをヒトラーと同等に扱うのか!」と激怒し、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874~1965)も「ベルギー人はすべての中立国のなかでもっとも卑劣だ」とあきれた。チャーチルは後に、「レオポルド[3世]は、戦争を避けて通りたいと思っている愚かなベルギー人の代表だ。それは無駄に終わるだろう」と回顧録に記している。
これが引き金となって、レオポルド3世は「ベルギー国内にいるプロパガンダを洗い出せ」と指示を出した。ベルギーの独立を守るために、諜報活動の疑いのあるベルギーと外国人を一斉に検挙していった。多くのフランデレンの活動家や共産主義者ブラックリストに挙がった。ベルギーを戦争に巻き込む可能性のある国全ての出身者が挙げられた。ドイツ人やイタリア人だけではない。イギリスやフランス人もである。
くしくも多くのユダヤ人がホロコースト下のドイツからベルギーに逃亡してきていた。その数千ものユダヤ人家族がベルギーを追い出され、行き過ぎた中立政策の問題を露わにした。

じじぃの「現存する日本最古の写真は?死ぬまでに観ておきたい世界の写真」

1001 Photographs: You Must See Before You Die/Octopus Publishing Group

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aljZCIcqe7Y

現存する日本最古の写真は?

1923 浜田彦蔵墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

2019/10/08 本牧Jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑
浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、天保8年8月21日(1837年9月20日) - 明治30年(1897年)12月12日)は幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。
●写真
平成18年(2007年)3月27日放映の情報系バラエティ番組『開運!なんでも鑑定団』にてスイスの写真研究家、ルイ・ミッシェル・オエールから彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の写真の鑑定依頼があった。
鑑定の結果、サンフランシスコ到着後に撮影されたものと断定、日本人を撮影したダゲレオタイプ写真の最古の記録を塗り替える大発見となった。
http://honmokujack.blog.jp/archives/19500873.html

『死ぬまでに観ておきたい 世界の写真 1001』

ポール・ロウ/著、小川浩一、竹村奈央、風早仁美/訳 実業之日本社 2019年発行

遠藤又左衛門と従者 より

エリファレット・M・ブラウン
撮影年:下田、日本
フォーマット・ダゲレオタイプ
エリファレット・M・ブラウン(1816~86)は、日本の記念写真を撮った人物としては最初期に属する。
彼は、歴史に名高い、マシュー・C・ペリー提督率いるアメリカの使節団の公式写真家として、開港前夜の日本の港を訪れた。ペリーの遠征隊は2年のうちに2回、1853年と54年に日本を訪問した。記録によれば、ブラウンはダゲレオタイプ写真を400枚ほど撮影したが、そのうちのわずかしか現存していない。しかし、一部の写真は石版画の形で、1856年出版の『ペリー提督日本遠征記』に挿絵として掲載されている。
この印象的な肖像写真の被写体は、箱舘(函館)知事の遠藤又左衛門と「彼に随行した2人の重臣」石塚官蔵、工藤茂五郎である(画像参照)。全体として、ブラウンの写真は日本の伝統的生活の魅力的で情報の富んだ記録になっており、被写体も風景、街並み、着物を着た女性や日本の政財界の重鎮の肖像など、実に幅広い。
アメリ使節団は1854年3月31日、日米和親条約終結にこぎつけ、アメリカの船舶に対し下田と箱舘の両港が開かれることになった。

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「Eliphalet Brown Jr」 画像検索
https://www.google.com/search?q=Eliphalet+Brown+Jr&tbm=isch&ved=2ahUKEwiX45iFvZrtAhUG15QKHR2DA5gQ2-cCegQIABAA&oq=Eliphalet+Brown+Jr&gs_lcp=CgNpbWcQAzIECCMQJ1CqwgJYqsICYKXIAmgAcAB4AIABtwGIAbcBkgEDMC4xmAEAoAEBqgELZ3dzLXdpei1pbWfAAQE&sclient=img&ei=6528X9fBDIau0wSdho7ACQ&bih=586&biw=1012&rlz=1C1CHPO_jaJP580JP580

じじぃの「歴史・思想_380_物語ベルギーの歴史・ルーベンス・フランダースの犬」

【3D】『フランダースの犬』 と ルーベンス 【美術】【絵画】【芸術】【アート】アントワープ聖母大聖堂☆ネロ☆パトラッシュ☆キリスト昇架☆キリスト降架☆聖母被昇天☆A Dog of Flanders☆

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=h8NTjoKScLA

ルーベンス 「キリスト昇架」

ルーベンス」とは?「フランダースの犬」との関係や代表作品も

2019.07.31 TRANS.Biz
●「ルーベンス」は主人公ネロが憧れた画家
日本においてルーベンスは、バロックの巨匠というより、アニメ「フランダースの犬」の主人公ネロが憧れた画家としての方が有名かもしれません。
フランダースの犬」は、イギリスの作家によって19世紀に書かれた児童文学で、ルーベンスの絵画を軸に貧しい少年ネロと犬のパトラッシュの友情を描いた悲劇です。昭和50年に同タイトルで日本のテレビアニメとして制作され、大人気となりました。
https://biz.trans-suite.jp/26757

『物語ベルギーの歴史 - ヨーロッパの十字路』

松尾秀哉/著 中公新書 2014年発行

【コラム】美術――画家にして外交官ルーベンス より

ベルギーでは、仮面をモチーフに、原色を用いた静物画や労働者の生活を独特の画風で描いたジェームス・アンソール(1860~1949)や、シュルレアリスムの代表的な画家と言われるポール・デルヴォー(1897~1994)、ルネ・マグリット(1898~1967)などが生まれたが、もっとも知られている画家はピーテル・パウルルーベンス(1577~1640)だろう。
ルーベンスはベルギー独立以前のドイツで生まれたが、父ヤン・ルーベンスと母マリアはアントワープ生まれ。だから「ルーベンス」はドイツ語の発音で、オランダ語では「リュベンス」となる。
父はスペイン領ネーデルランドで暮らすプロテスタントの信徒であった。スペイン統治下のネーデルランドで迫害され、ドイツへ逃亡した。その後に生まれたルーベンスは、父親の死(1587年)後、アントワープに戻る。
本文で述べたように、この時代は、宗教改革派の混乱の時代であり、オランダがスペインから独立しようとしていたときであった。ルーベンスオランダ独立戦争の激戦地であるアントワープカトリック信徒になり、聖像を禁じるプロテスタントに抵抗して宗教画を多く描いた。また人文主義教育のもとで多言語を修得した。
彼は1600年以降、スペイン王への贈答品を渡す公使の役割を担うこともあった。彼は、イザベラの宮廷画家として迎えられ、多言語を自由に扱う能力も認められて、絵を携えて政治的な外交交渉を担うことがあった。イザベラの庇護の下で個人の工房をもつことを許され、多くの弟子が育った。
もっとも著名な弟子はアンソニー・ヴァン・ダイク(1599~1641)である。この時期に描かれたのが、『フランダースの犬』で少年ネロが憧れた『キリスト昇架』(1610年)と『キリスト降架』(1614年)である。
その後、彼はパリさらにはスペインとネーデルランド、そしてイギリスに渡り絵を携えて和平交渉に寄与した。それが讃えられ、後に、スペイン、イギリスでナイトの称号を与えられている。
ベルギー(フランデレン)、アントワープの宗教的背景や地理的特徴が彼を多言語話者とし、特異な外交画家に育て上げたといえるだろう。

じじぃの「米国・建国から続く陰謀論・Qアノンの正体・トランプ支持者か陰謀論か?報道1930」

米大統領選挙の“陰謀論”の源流は建国にあった】報道1930 まとめ20/11/23放送

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1XZzyYkoInM&feature=emb_title

Trump supporting proponents of the "QAnon"

Dozens of Trump supporters championed the ‘QAnon’ conspiracy at his Tampa rally. Here’s what you need to know.

Aug. 2, 2018
Dozens of Donald Trump supporters championed the bizarre "QAnon" conspiracy theory at Tuesday's Tampa rally, a fact that instantly drew national media attention.
https://www.tampabay.com/florida-politics/buzz/2018/08/01/dozens-of-trump-supporters-championed-the-qanon-conspiracy-at-his-tampa-rally-heres-what-you-need-to-know/

報道1930

2020年11月23日 BS-TBS
【キャスター】高畑百合子、松原耕二 【コメンテーター】堤伸輔 【ゲスト】中山俊宏(慶應義塾大学教授)、森本あんり(国際基督教大学教授)
誰かが裏で米国を操っている…。「陰謀論」が広がる米国社会。
ロシア疑惑や貿易戦争などで迷走するトランプ政権を支持する人たちの間で、新たな勢力が影響力を強めている。ネット上の匿名の投稿者、「Q」の主張を信奉するQAnon(キューアーノン)と呼ばれる人たちだ。
トランプ氏を熱烈に支持するQの言説は、「世の中を動かしているのは、実は○○だ」といった類いの陰謀論である。そうした考えが浸透する背景には何があるのか。
●米国に巣くう“陰謀論
米国は今1日に20万人に迫る勢いで感染が広がっている。
米国・アイオワ州のレストランで撮影された写真では、みな間隔をあけることなく座っている。
共和党の支持者たちでマスクもつけていない。
米国では陰謀論が取り沙汰され、その中には「コロナの脅威は米国を支配している影の政府が仕組んだ」というものもある。

米国では、新型コロナウイルスは中国政府が生物兵器としてつくり出したものだと信じている人が40%もいる。

イリノイ州・エザイク公衆衛生局長は「コロナは現実だ」と異例の会見を行った。
●建国から続く“陰謀論
米国はなぜ建国から数百年もの間「陰謀論」が続くのか。
ワシントンやフランクリンらのフリーメイソンによって米国が建国された。
中山俊宏、「英国から渡ってきた清教徒たちによって米国は建国された」
堤伸輔、「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。最初に渡ってきた清教徒が糸を昇っていると下から次々と移民たちが糸を昇ってくる。本当のところは下の糸を切りたい。移民が自分達よりも豊かになることを嫌う。自分達と違う人種や宗教の人達が自分達よりも社会で恵まれたところにいることを非常に嫌う。警戒する気持ちが米国の移民が始まった歴史の中にあり、それが米国人の中で定着してしまった」
さらに、トランプ大統領によりそれが拡大されたと指摘。
●白人が持つ“深層”の恐怖
なぜ米国の保守層に陰謀論が根付きやすいのか。
「ディープストーリー」という物語で米国の社会学者・ホックシールドが白人保守層を5年間取材した物語を解説。
「ディープストーリー」とは、「心の奥深くで感じる物語」のこと。
それによると、人々は山頂には米国ンドリームがあると信じ長い行列に辛抱強く並んでいるが、列に割り込んで先に行くものがいる。それは移民であり、マイノリティであるという。すなわち、不正があるというのがディープストーリーである。
もはや米国は“ユナイテッド・ステイツ"ではない。なぜ分断はこれほど深いのか。カリフォルニア大学バークレー校の著名学者が共感を遮る「壁」を越え、右派の心へ向かう旅に出た。全米最貧州の一つ南部ルイジアナでの5年間、ティーパーティー運動を支える人々から聞き取ったディープストーリーを丹念に描く。
陰謀論とQアノン
Qアノンと呼ばれる陰謀論
Qアノンに傾倒しているとされる議員が4人も誕生している。
「Qアノン」とは米国がディープステートに支配されて彼らと戦う救世主がトランプとする陰謀論支持者のことをいう。
中山俊宏、「本当のところQアノンというのは分からない。彼らはゲームを楽しんでやっているように見える」
https://www.bs-tbs.co.jp/houdou1930/

『賢い人ほど騙される 心と脳に仕掛けられた「落とし穴」のすべて』

ロブ・ブラザートン/著、中村千波/訳 ダイヤモンド社 2020年発行

架空の敵と戦う勇者という「自画像」――だから、陰謀論は論破できない より

ところで、陰謀論には死者の数が示されているものもある。陰謀論は暴力的な過激主義に関しては、私たちのもっとも暗い偏見を利用しているし、ワクチンに対する懸念に関しては、愛する人を守りたいという気持ちを利用することもある。
だが、陰謀論を避けて安全な場所へ逃げ込む前に、たいていの陰謀論はあまり煽動的でないことを指摘しておく。確かにみんなが、ユダヤ人が世界滅亡の陰謀に関わっている、あるいは、人の命を救うワクチンが毒であると信じたら厄介だ。しかし、エルヴィス・プレスリーが生きていて、ミシガン州のカラマズ1[1984年まで、楽器メーカーのギブソン・ギター・コーポレーションの本拠地だった]で元気に暮らしていると信じるとしたら、あまり気をもまなくてすむだろう。
とは言うものの、害のないように見える考えでさえ、不運な結果を招くこともあるだろう。1995年、リサ・バトラーをリーダーとするスタンフォード大学の3人の心理学者が、陰謀を描いた、オリバー・ストーン監督の1991年の映画『JFK』を観にきた人に、上映直前か直後にインタビューした。映画館に入ろうとしている人に比べて、映画館から出てきた人は、来る選挙で投票したち、選挙運動を手伝ったり、寄付をしたりしないだろうと言う割合が高かった。たんに映画を見るだけでも、少なくとも一時的には、市民として選挙に関わろうという気持ちが損なわれたのだ。
つい最近では、ジョー・ウシンスキーとジョセフ・ペアレントが、2012年の大統領選挙の直後に米国人に対して調査をした。陰謀論を信じる人ほど、選挙で投票しなかったことがわかった。また、そのような人が、政治的な表明をしたり、集会に参加したり、候補者の手伝いをしたり、寄付したり、選挙に出馬したりする傾向はなかった(だが、陰謀論を信じる人には、選挙結果が不正操作されると思う傾向があった)。
    ・
だがここで問題となるべきは、政府内の陰謀ではなく、政府が無能であることだ。集団特有の、関係機関内のコミュニケーション不足――もっとも必要としている人に情報を伝えなかったこと――によって、すべての人が、自分たちのすぐ目の前にある明白かつ現在進行中の危機に気づかなかった。間違いが起こると、それに関心を向けることで、将来同じ間違いが起こるのを避けられるかもしれない。それでも、米国の諜報機関とテロ対策機関のネットワークは、これまでよりも複雑で冗長になり、かつてないほど官僚主義に陥っている。政府は潜在的な脅威に対する膨大な情報(何百万人もの害のない市民に関する情報は言うまでもない)を集めているものの、テロリストを見過ごしている。このような本当の問題は、陰謀論ほどには大衆やメディアから注目されない傾向がある。
もちろん、無能だという理由ではすべてを説明できない。本当の陰謀もある。だが、陰謀主義の皮肉の1つは、本当の悪事はいつも、取返しのつかないほど腐敗していると思われる支配体制そのものの中で働いている内部告発者、ジャーナリスト、研究者、役人によって暴露されうということだ。
陰謀論者は、ある一点は正しい」とジャーナリストのチップ・バーレットが書いている。「世界――そして世界自体への脅威――には是正しなければならない権力や特権の不平等があうのだ」。それでも、陰謀主義はほぼいつも、調査研究や社会改革という大変な仕事から注意をそらす、と彼は主張する。「陰謀論は多くの魅力的な疑問にスポットライトを浴びせる――だが、意味のある答えには、ほとんど光を当てない」

陰謀論支持者の世界観では、世界は白と黒で塗り分けられている――巨大な陰謀と戦っている勇敢な陰謀論者が描く、漫画のような肖像画だ。だが、現実はグレーの影だ。陰謀論は、架空の陰謀家という生贄をつくることで、現実的で修正可能な問題から人々の注意をそらす。存在しない陰謀と戦っている。だから、あなたは陰謀論に勝てないのだ。

じじぃの「歴史・思想_379_物語ベルギーの歴史・独立革命と10日間戦争」

A Super Quick History of Belgium

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=R6-eMN5En4g

Crisis in Belgium

Crisis in Belgium: If Flanders Secedes Wallonia Disintegrates

2007-09-09 The Brussels Journal
If Belgium breaks up it is likely that Wallonia will break up as well, with part of it preferring to go to Germany, part of it to the Grand Duchy of Luxemburg (GDL) and part of it to France.
https://www.brusselsjournal.com/node/2433

ベルギー/ベルギーの独立

世界史の窓
●ベルギー王国の独立
ウィーン議定書でオランダ領とされたベルギーはオランダ立憲王国の支配(保護貿易の強制、教育の統制、公用語オランダ語の強制など)に不満を強め、フランスで七月革命が起こると、ベルギー独立運動に飛び火し、オランダ国王ウィレムに対する自治要求となってあらわれた。国王はそれに対し、ブリュッセルに軍隊を派遣、1830年9月、3日間の戦闘となった。市街戦のさなか25日臨時政府を樹立、29日議会は分離を決定した。1830年10月4日に独立を宣言した。
1831年1月、ロンドン会議でベルギーの独立が認められ、ドイツの領邦君主ザクセンコーブルク=ゴータ公レオポルトがレオポルド1世として即位し、立憲君主国として国際的に承認された。
永世中立国
ベルギーに対するフランス、プロイセン(ドイツ)の野望を警戒したイギリスは、1839年にはベルギー永世中立化をねらい、列強との間に条約を締結し、オランダもベルギーを永世中立国として承認した。
なお、これによってフランドル地方は北部がベルギー領(フランデレン)となり、南部がフランス領とされることとなった。ベルギーは以前から高い工業能力を有していたので、独立を契機としてイギリスに続いてベルギーの産業革命を達成した。
https://www.y-history.net/appendix/wh1201-013_1.html

『物語ベルギーの歴史 - ヨーロッパの十字路』

松尾秀哉/著 中公新書 2014年発行

ベルギーの独立――1830~64年 より

国王は誰か

しかし、オランダからの独立はそのまま問題なく達成されたわけではない。オランダはベルギーを手放す気など毛頭なかった。ウィーン体制下のヨーロッパでは、5大国(オーストリア、ロシア、プロイセン、イギリス、フランス)の判断が重要である。ウィレム1世は親戚筋のロシア、プロイセンに援護を求めた。他方、フランスは先進工業地域だったワロンを勢力下に入れようと軍を準備していた。
一触即発の雰囲気のなかで、ベルギー臨時政府の首班であるシャルル・ロジェ(1800~85)、オランダのウィレム1世が調停を求めて、国際会議の招集を5大国に要求した。どちらにも肩入れしていない。中立な立場のイギリスが会議の場所に選ばれ、翌月にはロンドン会議が開催された。ウィレム1世の意に反して、イギリス(パーマストン)、オーストリアメッテルニヒ)、フランスの代表者らがベルギーの独立を承認した。
ロンドン会議で問題となったのは「誰をベルギーの君主とするか」であった。最初に候補に挙がったのは、オランダのウィレム1世の子、ウィレム王子であった。しかし、そもそもベルギーの人々には君主を置くことに対する嫌悪感があった。それがベルギー人ではなく、ついこの間まで自分たちを苦しめてきたオランダであればなおさらである。ベルギーの国民議会はそれを拒絶した。
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1831年6月にロンドン会議はレオポルドを国王候補として推挙し、6月4日にベルギーは国民議会で彼を受け入れることを決定した。そして7月にレオポルドが初代国王として宣誓をした。

10日間戦争

しかしオランダはベルギーへの攻撃をやめなかった。実は、ベルギー国民議会とレオポルド1世は、即位直前にロンドン会議の決定にいくつか不満を申し立てた。第1にオランダの戦費を負担することになったこと、第2にルクセンブルクを奪われることが挙げられる。
ロンドン会議では、ルクセンブルクもベルギーに加わってオランダから独立したいと希望していた。ベルギー側もルクセンブルクをベルギーに加えたいと考えた。しかしその希望はかなわず、ルクセンブルクはオランダの傘下におかれ続けた。ベルギーからすると、戦後賠償金を負担させられて、そのうえルクセンブルクを手放すことになってはたまらない。
事態の収拾を急ぐ5大国は、ルクセンブルクの一部をベルギーに渡し、戦費負担を減額することにした。申し立てが受け入れられたベルギーは、盛大な宣誓式を行い、大いに盛り上がった。
一方、議定書の最終案を見たウィレム1世は激怒した。明らかに最終案は、オランダにとって不利な条件へ変更されていた、ベルギーに対する債権は減らされ、領土も減らされた。
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1831年1月8日にオランダ軍はベルギーに侵攻し、ハッセルト周辺でベルギー軍を打ち破った。レオポルド1世の要請によってフランス、イギリスが救援に向かい、これによりオランダ軍は撤退した。この戦いは10日間戦争と言われている。
実は10日間戦争は、それ自体が問題でななく、当時のウィーン体制のながで、その後もフランス軍がベルギーに駐留し続けたこと(これはレオポルド1世の要請による)のほうが、国際関係の懸案となったようである。結局フランス軍は、翌9月に撤退の意志を示し、領土および戦費負担の問題はオランダに譲歩するかたちで決着し、ひとまず落ち着いた。しかし約1ヵ月の間、ヨーロッパそしてウィーン体制派は、ベルギーの独立をめぐって大いに揺れたのである。
最終的にオランダは領土を戻し、戦費をベルギーに追わせることでベルギーの独立を容認し、ロンドン条約が結ばれたのは1839年のことであった。独立革命と10日間戦争から8年もの時間を要した。

じじぃの「アンボイナガイ・貝に食われるなんてそんな!へんないきもの」

Cone snail - net hunter hunting for fish

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UHiGuquJmpE&feature=emb_title

Cone Snails Use Insulin as a Weapon

インスリンを毒に使う貝を発見

2015.01.22 ナショナルジオグラフィック日本版サイト
獲物を捕まえられなければ食事にありつけない。しかし足に自信はない。ならば、裏ワザを使うしかない。動きの遅いアンボイナガイ(学名:Conus geographus)の場合、その裏ワザとは、魚に薬をもることだ。
「Proceedings of the National Academy of Sciences」誌に今週発表された論文によると、イモガイの仲間で熱帯に生息するアンボイナガイは、インスリンを含んだ毒を発散して魚を襲うという。血糖値が急激に下がった魚は、昏睡状態に陥ってしまう。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150121/432567/

『またまた へんないきもの

早川いくを/著、寺西晃/イラスト バジリコ 2005年発行

刺されたら死んだと思え アンボイナ より

精密誘導弾なる兵器はハイテクの代名詞のように思われているが、よその国に落ちる、精密着弾したのに付近一帯まるごと吹っ飛ばすといった間抜けな挙動については、何故かあまり報道されない。
真の精密兵器とはアンボイナのことだ。「イモガイ」という野暮ったい名称ながら、俊敏な魚を精密狙撃して捕らえる手練れの巻き貝だ。検臭器という科学センサーで索敵、位置を把握すると口吻(こうふん)を蝕手のように長く伸ばし、獲物の魚に接近。口吻の先端には、厚い潜水服や硬い鰓(えら)ぶたもぶち抜く、猛毒針が装填されており、忍び寄り獲物を狙撃、麻痺させて魚は丸呑みにする。のろまな貝ごときの餌となる無念はいかばかりかと思われるが、人間をも麻痺させ、呼吸困難・心停止をひき起こすこの高致死率の猛毒には抗う術もない。
ペプチド性神経毒の複雑な混合による「コノトキシン」と呼ばれるこの猛毒には、抗毒血清も存在せず、イモガイ刺症事故の被害者の半分は重症に陥り、その過半数は死亡。美しい模様のこの巻き貝を見つけたとしても絶対に拾ってはならない。