じじぃの「歴史・思想_58_オーストリアの歴史・ヒトラーとリンツ」

Hitler's childhood house and parents' grave, Leonding, Austria

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6hy5A89fg4g

ヒトラーが生まれた家

ブラウナウ・アム・イン

ウィキペディアWikipedia) より
ブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)は、オーストリアザルツブルクから北へ60キロメートルの、オーバーエスターライヒ州西北部のイン川の畔にある基礎自治体(Gemeinde)。
ドイツとの国境にある街。東南部にオーストリアで三番目に大きい都市のリンツがある。 起源は810年頃まで遡り、市の条例は1260年から引き継がれているオーストリアでも最も古い都市の一つ。 アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日にブラウナウに生まれた。

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『物語 オーストリアの歴史-中欧「いにしえの大国」の千年』

山之内克子/著 中公新書 2019年発行

ヒトラーリンツ より

1938年3月、ドイツへの併合か、国家としての独立かを問う国民投票の計画を中止させ、最後までナチス支配に抵抗した首相クルト・シュシュニックを退陣に追い込んだアドルフ・ヒトラーは、ただちにオーストリアに対する進軍を開始した。ミュンヘンから国境に向かった隊列はイン河を渡り、各地で住民の大歓声を浴びながら首都を目指す。この無抵抗のオーストリア信仰作戦において、リンツはまさしく、ナチスドイツ軍を迎えた最初の都市となったのである。
進軍前夜の3月11日深夜、シュシュニック政権下においてはあくまで非合法団体として活動していた地元の国家社会主義者たちが、州都の目抜き通りで松明(たいまつ)行列を繰り広げ、「併合」を祝った。翌日夜8時、リンツに到着した総統は、市庁舎のバルコニーに立ち、歓喜を露わにする市民を前に、オーストリアにおける最初の演説を行なったのであった。翌日には、ドイツとオーストリアの「再統合」を決める法がこの地で公布され、ヒトラーは連隊を従えて一路ウィーンへと向かった。
だが、アドルフ・ヒトラーオーストリア併合に当って最初にリンツに進軍したのは、単にドイツと国境を接するオーバーエスターライヒの州都という、地理的条件ゆえのことではなかった。その後、ドイツ現代史を空前の悲劇に巻き込んでいくこの煽動的政治家は、実際、オーバーエスターライヒおよび都市リンツに深い縁を持つ人物であったのだ。1889年、ドイツとの間を隔てるイン河リンツのほとり、由緒ある中世都市ブラウナウに生を享けたヒトラーは、5歳のとき家族とともにリンツに転居し、青少年期をここに過ごした。こうした経歴から、ヒトラーは当初よりリンツを「わが郷里の都市」と呼び、やがてそこから、「総統の都市、リンツ」というイメージが全ドイツに伝播していった。
他方、オーストリア国内でももっとも早い時期に本格的工業化が進行したリンツでは、戦間期には労働運動と労働争議が先鋭化し、社会不安が著しく高まった。この特殊な環境は、共産主義に対する嫌悪とともに、大国ドイツへの併合と政治的安定を強く望む志向を生み出し、ナチスにとっての強力な支持層を形成したのであった。こうして、リンツはその後、オーストリア・ナチズムの拠点のひとつとしての機能を果たすことになる。
オーストリアの併合後、ヒトラーは都市リンツの「代父」を名乗り、ミュンヘン工科大学建築学を学んだ軍需大臣アルベルト・シュペーア、さらに党専属の建築家ヘルマン・ギースラーを動員して、その大改造計画に乗り出した。中央ヨーロッパ全域を支配する「アーリア人国家」実現の暁には、ヒトラーリンツに首都を移転させ、ここで晩年を送る心積りでいたといわれる。「わが故郷の街が、いまふたたび祖国ドイツのもとに還(かえ)ったのだ。このリンツを、ウィーン、ブダペストなど遥かに及ばない、ドナウ湖畔でもっとも美しく壮麗な都市へと生まれ変わらせてほしい」。責任者であったギースラーに、ヒトラーは繰り返しこう語った。
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リンツから東方へ20キロメートルのマウトハウゼンにはオーストリア最大の強制収容所が置かれ、ドイツのダッハウ、ブーヘンヴァルトを遥かに上回る恐るべき数の犠牲者を出したことは、偶然がもたらした結果では決してなかった。マウトハウゼン近郊の一帯は、古くから良質の花崗岩の産地として知られていた。リンツ大改造に固執したヒトラーは、都市計画に必要な建材を確保するため、強制労働を通じて大規模な採石を進めようとしたのであった。したがって、マウトハウゼンは当初より、アウシュビッツのような「絶滅収容所」として構想された施設ではなかった。だが、石切り場での過酷な労働は、多くの人々を短期間のうちに死へと追いやることになる。さらに、1944年夏以降、ソ連軍侵攻に伴なって東部の収容所がつぎつぎと閉鎖され、ここから移送された大量の収容者によって過密状態が生じると、本来は強制労働収容所であったはずのマウトハウゼンにもまた、ガス室と死体焼却炉が設置された。マウトハウゼンのガス室で殺された収容者は少なくとも1万8000人、さらに、過労や飢餓、私刑などを通じて終戦までにこの地で命を落とした人びとは、10万人以上に及んだといわれる。