じじぃの「歴史・思想_59_オーストリアの歴史・リンツから始まる」

Column: Linz: Forgetting Hitler

韓国はどこへ? その「国のかたち」の変質と行方 著者:黒田勝弘 発売日:2016年

●海洋勢力か大陸勢力か。朝鮮半島ブラックホール、日本は深入りするな?!在韓35年の日本人記者が徹底解剣!
1章 迷走する韓国外交―大陸勢力としての夢と郷愁;2章 「正しい歴史認識」は虚構である―天安門広場の韓中歴史歪曲;3章 未完の日韓協力五十年史を総括する―朴槿恵・槿令姉妹の二人三脚;4章 東アジアの国際情勢は過去回帰か―第二次産経新聞事件の歴史学;
5章 「中立化統一コリア」の夢―オーストリアに学べ?;
6章 日韓・多様な歴史観の拒否―懲りない歴史教科書紛争;7章 狂気のアベ叩きと日本の韓国化―日本右傾化脅威論の虚実;8章 韓国の賞味限期切れ―市民主義と愛国主義の奇妙な共存;9章 反日親日である―対日差別語はなぜ消えたか;あとがきに代えて―朝鮮半島というブラックホール

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『物語 オーストリアの歴史-中欧「いにしえの大国」の千年』

山之内克子/著 中公新書 2019年発行

ヒトラーリンツ より

1938年3月、ドイツへの併合か、国家としての独立かを問う国民投票の計画を中止させ、最後までナチス支配に抵抗した首相クルト・シュシュニックを退陣に追い込んだアドルフ・ヒトラーは、ただちにオーストリアに対する進軍を開始した。ミュンヘンから国境に向かった隊列はイン河を渡り、各地で住民の大歓声を浴びながら首都を目指す。この無抵抗のオーストリア信仰作戦において、リンツはまさしく、ナチスドイツ軍を迎えた最初の都市となったのである。
進軍前夜の3月11日深夜、シュシュニック政権下においてはあくまで非合法団体として活動していた地元の国家社会主義者たちが、州都の目抜き通りで松明(たいまつ)行列を繰り広げ、「併合」を祝った。翌日夜8時、リンツに到着した総統は、市庁舎のバルコニーに立ち、歓喜を露わにする市民を前に、オーストリアにおける最初の演説を行なったのであった。翌日には、ドイツとオーストリアの「再統合」を決める法がこの地で公布され、ヒトラーは連隊を従えて一路ウィーンへと向かった。
だが、アドルフ・ヒトラーオーストリア併合に当って最初にリンツに進軍したのは、単にドイツと国境を接するオーバーエスターライヒの州都という、地理的条件ゆえのことではなかった。その後、ドイツ現代史を空前の悲劇に巻き込んでいくこの煽動的政治家は、実際、オーバーエスターライヒおよび都市リンツに深い縁を持つ人物であったのだ。1889年、ドイツとの間を隔てるイン河リンツのほとり、由緒ある中世都市ブラウナウに生を享けたヒトラーは、5歳のとき家族とともにリンツに転居し、青少年期をここに過ごした。こうした経歴から、ヒトラーは当初よりリンツを「わが郷里の都市」と呼び、やがてそこから、「総統の都市、リンツ」というイメージが全ドイツに伝播していった。

戦後のオーバーエスターライヒ――過去との対峙 より

国土の西部に位置するオーバーエスターライヒに最初に進駐したのはアメリカ軍であり、連合国間交渉によってソ連に引き渡された北部ミュール地区を除き、その後もほとんどの地域がアメリカ軍占領区域となった。米国による惜しみない経済的・物質的支援に支えられて、エンス河以西地域の戦後復興は、国内でも飛躍的に早かったといわれている。
リンツ近郊の工業地帯は、のちに「奇跡の復興」と呼ばれたオーストリアの高度経済成長を支える原動力として機能した。だが、その一方で、独裁者ヒトラーを生み、さらにその庇護を得て、戦時中はベルリンと並ぶ「本丸」となったリンツは、アメリカ占領期から第2共和国時代にかけて、自身のアイデンティティー刷新に著しく苦心することになった。きわめて順調な産業復興の過程においてすら、オーストリア企業の双璧のフェスト社(現フェストアルピーネ社)とプラスティック製品のヒェミー・リンツ社が、ナチスが設立した2大軍需工場、「ゲーリング帝国軍事工場」および「オストマルク窒素製造」にルーツを持つという事実が、人びとの心に深刻なアンビバレンスを呼び起こした。
終戦後まもなく盛んに提示されたスローガン、「リンツから(戦後の)すべてが始まる!」にはこうした状況のなかで、「ヒトラー都市」という既存のイメージから脱却しようとした。市民たちの賢明な努力が読み取れるだろう。戦後のリンツでは、まるで過去の悪夢をさっぱりと断ち切ろうとするかのように、ひたすらモダニズムと現代性が追求された。
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だが、現代性に固執することは、はたして過去との完全なる訣別を意味するのだろうか。この問いかけはリンツとオーバーエスターライヒに限定される問題ではない。負の歴史といかに対峙するかは、米ソによる東西対決の微妙な力関係のなかで、戦争の加害者ではなく、あくまでナチスドイツの最初の被害者としての立場ばかりが強調されてきたオーストリアの戦後史における最大の難問であり続けてきた。しかし、1986年、ナチス突撃隊と深く関わったクルト・ヴァルトハイムが大統領に選出されて国際スキャンダルを巻き起こした。いわゆる「ヴァルトハイム問題」を経て、1991年、当時の首相フランツ・フラニツキが国民議会演説で初めてオーストリアの戦争責任に言及するという経験のなかで、国民自身が、「ナチス支配をすすんで受け入れた被害者」という、形容矛盾に満ちた立ち位置を、少しずつ見直そうとしていることも確かである。
2008年9月、リンツ城博物館において、『総統の都市――リンツ、オーバーエスターライヒにおけるナチズム』と題する、大規模な展覧会が開催された。ナチス時代のオーストリアの文化と日常に光を当てたこの展覧会では、ヒトラーによるリンツ大改造計画、ドイツ博物館の構想とヨーロッパ各地での芸術品掠奪の詳細が、史上初めて広く一般に公開されたのであった。全ヨーロッパの熱い注目を集め、メディアでも大々的に取り上げられたこの展覧会は、まさしく、リンツを中心とするオーバーエスターライヒの研究者たちが、従来タブーとされてきた「負の歴史」と積極的に向き合い、その解明に着手しつつあることを示す明らかな兆候であった。
オーストリアが客観的な形で過去と向き合い、現代史における自身の真の位置価値を探る作業もまた、戦後のスローガンが謳ったように、まさしく「リンツからが始まる」のかもしれない。