じじぃの「歴史・思想_381_物語ベルギーの歴史・第二次世界大戦・中立政策」

King Leopold Iii (1930-1939)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tpCtdr5mZiw

Leopold III of Belgium

ベルギー/ベルギーの独立

世界史の窓
第二次世界大戦
ナチス=ドイツは、1940年5月10日、同時にオランダ・ベルギー侵攻を開始した。
国王レオポルド3世は徹底抗戦を決意し、自ら総司令官として指揮を執ったが、わずか18日でドイツに無条件降伏し、捕虜となった。ピエルロを首班とする政府は降服を拒否し、国王の権利を剥奪してロンドンに亡命政権を立て、国内のレジスタンス運動を指導した。ドイツ占領は1944年まで続き、8月から9月にかけて解放された。戦後、レオポルド3世の復位を認めるかどうかは国論を二分する大問題となった。
●国王の戦争責任問題
レオポルド3世は、政府から国王としての権利を剥奪され、ドイツ軍の捕虜の身でありながらヒトラーを訪問し、ナチスに対して好意的な態度をあらわした。44年にベルギーが解放されたが、ドイツ軍は撤退にあたってレオポルド3世を連行し、オーストリアに軟禁した。45年5月、ようやくアメリカ軍によって解放されスイスに移されたけれども、ベルギー国内世論は彼の復帰をめぐって二つに分裂した。北部農民層はカトリック教徒のフラマン人が多く、国王の復帰を支持し、南部鉱工業地域のワロン人は国王の退位を要求した。1950年、国王の復帰を認めるかどうかの国民投票が行われ、57.6%で復帰が支持された。7月に6年ぶりに国王が帰国したが、ブリュッセルの街には「国王万歳」と「国王打倒」の声が入り交じり内乱の危険さえ生じた。その状況を見たレオポルドはついに退位を決意し、翌年に皇太子ボードウァンに王位を譲った。
https://www.y-history.net/appendix/wh1201-013_1.html

『物語ベルギーの歴史 - ヨーロッパの十字路』

松尾秀哉/著 中公新書 2014年発行

レオポルド3世と第二次世界大戦 より

ファシズムの台頭

1932年以降の経済危機は、議会制民主主義への批判を高めていった。あらゆる政策が功を奏することなく政権交代が続く。戦間期22年間で19回の政権交代が生じた。政局の不安定化は従来の政党に対する不信を高め、さまざまな新政党が台頭するようになった。既成政党にとってもっとも脅威だったはサロンやブリュッセルで台頭したレックス党である。レックス党は、ルーヴェンカトリック大事学のカトリック青年活動家団体を母体としている。
ドイツにおけるヒトラーの脅威が高まったこの時期は、同時にベルギー人の愛国心が高まりを見せた時代でもあった。そしてその愛国心はオランダからの独立戦争の記憶と歴史を蘇られ、かつてオランダとベルギーを分けたカトリックの信仰心をも高めた。他方で、前述のようにフランデレンの分離主義運動も高まっていた。

レオポルド3世の独自外交

アルベール1世の事故死によって1934年に即位したのは息子レオポルド3世(1901~83)である。33歳のときであった。背の高い。青い目とブランドの髪の美男として王子のころから評判であった。何をしても弟シャルルより秀でており、弟は「兄に勝るものは、成績がクラスで下から2番目だった私には何もない」と日頃から口にしていた。
彼は1926年にスウェーデン王室のアストリッド妃(1905~35)と結婚した。当時彼女は清楚な美女としてヨーロッパ中の注目を集めていた。ゲルマンの血をひく血をひく彼女との結婚は、フランデレンとの関係を好転させるのでないかと期待が広がった。
また、レオポルド3世はベルギー史上初めて(誓約だけではなく)即位挨拶をフランス語、オランダ語の両語で行った。
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レオポルド3世は1936年10月14日の閣議で、ベルギーの外交政策の変更が必要であると訴えた。フランスに従属しない、独自の外交政策への転換を主張したのだ。ヴァン・ゼーラント首相、ポール・アンリ・スパーク(1899~1972)外相は、そのスピーチを公にすることにした。
国王の「独自外交路線」の背景には、1920年に結んだフランスとの軍事協定があった。ドイツで台頭するヒトラーは、第一次世界大戦の遺恨もあり、フランスに強い敵対心をも;つていると考えられていた。ベルギーとフランスとの軍事協定は、ベルギーをヒトラーの「標的」にする恐れがある。だからこの軍事協定は破棄しなければならないと国王は考えたのである。だからこの軍事協定は破棄しなければならないと国王は考えたのである。
ドイツの新聞は彼の「独自外交」を、フランスからの離反と解釈して讃え、フランスの新聞は裏切りと非難したが、彼はただ父の路線を継承し、ベルギーを守ることを最終先に考えていた。そして、彼にとってベルギーを守ることは、徹底した「中立」に立つことであった。

行き過ぎた中立政策

1939年9月1日にドイツ軍がポーランド軍ポーランドに侵攻すうとイギリス、フランスが宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。翌40年4月、ドイツがスウェーデン、ノルウエーに侵攻すると、イギリスとフランスはドイツがベルギーに侵攻することを確認し、フランス軍とイギリス軍の常駐をレオポルド3世に依頼した。いずれもベルギーでナチスを食い止めるためである。
しかし「ベルギーを守る」ことを使命としていたレオポルド3世は怒り、「国境にのみ」群の常駐を認めると返事した。そしてベルギー領内で兵士をみかけたら、イギリスだろうがフランスだろうが射殺すると返事した。彼はベルギーを戦場にしたくなかったのだ。ベルギーを破壊する者は、ドイツもイギリスもフランスも同じ存在とみなしたのである。それが彼の中立政策だった。
しかし、この返事に、フランス首相のポール・レノー(1878~1966)は「われわれをヒトラーと同等に扱うのか!」と激怒し、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874~1965)も「ベルギー人はすべての中立国のなかでもっとも卑劣だ」とあきれた。チャーチルは後に、「レオポルド[3世]は、戦争を避けて通りたいと思っている愚かなベルギー人の代表だ。それは無駄に終わるだろう」と回顧録に記している。
これが引き金となって、レオポルド3世は「ベルギー国内にいるプロパガンダを洗い出せ」と指示を出した。ベルギーの独立を守るために、諜報活動の疑いのあるベルギーと外国人を一斉に検挙していった。多くのフランデレンの活動家や共産主義者ブラックリストに挙がった。ベルギーを戦争に巻き込む可能性のある国全ての出身者が挙げられた。ドイツ人やイタリア人だけではない。イギリスやフランス人もである。
くしくも多くのユダヤ人がホロコースト下のドイツからベルギーに逃亡してきていた。その数千ものユダヤ人家族がベルギーを追い出され、行き過ぎた中立政策の問題を露わにした。