じじぃの「科学・芸術_958_アイルランド・イングランドによる支配」

Study Ireland 8: Battle of the Boyne - 1690

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_uGXtYvvk0U

ボイン川の戦い 1690

ボイン川の戦い

ウィキペディアWikipedia) より
ボイン川の戦い(Battle of the Boyne)は、1690年7月1日(ユリウス暦グレゴリオ暦では7月12日)、ウィリアム3世率いるイングランド・オランダ連合軍と、退位させられたジェームズ2世率いるアイルランド軍の間に行われた戦い。
アイルランドのボイン川河畔で行われた。イングランド軍36,000人とアイルランド軍25,000人が戦い、ウィリアム3世が勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにした。

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アイルランドを知るための70章』

海老島均、山下理恵子/編著 赤石書店 2004年発行

イングランドによる支配のはじまり クロムウェルアイルランド征服

イングランドによるアイルランド支配は12世紀にはじまったといわれる。1154年、アイルランドキリスト教会をローマ教皇の統制下に置こうとした教皇ハドリアヌス4世は、イングランド王ヘンリー2世に教書を送り、アイルランドの支配権を与えた。だが、その当時ヘンリー2世のイングランド支配は盤石なものではなかったので、アイルランドに軍隊を派遣する余裕などなかった。
というのも、ヘンリー2世は、ノルマンディで生まれ、イングランド人というよりフランス人であり、いわゆるアングロ・ノルマン人だった。イングランドは1066年に、フランスのノルマンディ地方を基盤とするウィリアム1世に征服され、アングロ・サクソンの貴族にかわって、ノルマン系の貴族の支配下にあったのである。そのため、実際に軍隊が送られたのは、皮肉なことにゲール系アイルランド人(アイルランド先住民)んp要請にヘンリー2世が応じた結果だった。
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アイルランドにはイングランドの政治システムが移入された。ダブリン城が建設されるとともに、イングランド王にかわり総督がアイルランド統治の責任者となり、二院政の議会も導入された。イングランドが支配する領域はしだいに拡大し、14世紀初頭までに島の4分の3に及んだという。
だが、イングランド系は、ゲール系アイルランド人を根絶したり、彼らを土地から追放するといった過酷な手段を用いなかったこともあって、ゲール系アイルランド人はしだいにその支配地域を島の半分まで回復した。また、イングランド系もゲール系と通婚するなどゲール化していき、イングランド系とゲール系は奇妙な共存関係にあったといえよう。こうした状況を一変させたのが、チューダー朝ヘンリー8世エドワード6世メアリー1世エリザベス1世)による軍事占領と宗教改革だった。
チューダー朝アイルランドを軍事的に占領し、それ以後のアイルランド支配の基礎を作った。ヘンリー8世は1541年、アイルランド議会からアイルランド国王の称号を贈らせ、これ以後イングランド国王がアイルランド国王を兼ねた。彼が王位に就く前、アイルランド支配は少数のイングランド系貴族を通じた緩やかなもので、イングランド王の支配権もダブリン周辺にとどまっていた。
しかし、イングランド宗教改革を行ったヘンリー8世は、アイルランドでも宗教改革を断行し、カトリックを厳しく弾圧し、彼らの土地を収奪した。
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こうした植民はゲール系の反発を招き1641年、アルスター地方で蜂起が決行され、翌年にはそれがアイルランド全土に広がった。イングランドは「ピューリタン革命」によって国内が混乱し、しばらくはアイルランドの「反乱」を鎮圧することで見送られた。だが、イングランドにおける内乱を終結させたオリバー・クロムウェルは、1649年、1万2000名の将校を率いてダブリンに上陸し。ドロハダで4000名、ウェックスフォードで2000名の人びとを虐殺したといわれている。このロムウェルの残虐行為は、アイルランド人の間で永く語り継がれていく。さらにイングランド人はアイルランド人の土地没収を進め、それを政府の債権者とクロムウェルの軍隊の兵士に分け与えた。カトリックの土地所有者に占める割合は著しく減少した。また、「反乱」に参加しなかった者さえも、それまで所有していた土地を没収され、そのかわりに西部の荒地が与えられることとなった。
1688年のイングランドの「名誉革命」は流血を伴わない革命として有名であるが、一方、この革命はアイルランドを戦場と化した。王位を追われフランスに亡命したカトリックジェームズ2世は、アイルランドを足場にしてイングランド王を復位しようとしたのである。1689年、ジェームズ2世フランス軍を伴いアイルランドに上陸したが、アルスター地方のプロテスタントの植民者から徹底的な反撃を受けた。1690年にはイングランドウィリアム3世が自らアイルランドにわたり、ボイン河でジェームズ2世軍を打ち破った、これ以後も戦闘はつづいたが、最終的にウィリアム3世が勝利を収めたのであった。