じじぃの「歴史・思想_09_世界史大図鑑・チャールズ1世(イングランド王)」

King James VI of Scotland and I of England (1566 - 1625)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Wb8ALTTNn14

イギリス王室

アメリカの歴史 その1

1620年9月、イギリス国教会の弾圧を受けた清教徒102人は、メイフラワー号でイギリス南西部プリマスから新天地アメリカに旅立った。
66日の苦難の航海の末、マサチューセッツ州プリマスにたどり着いた。彼らはピルグリムファーザーズ (Pilgrim Fathers)と呼ばれる。そして、「法に服従する」ことを誓ったメイフラワー誓約(Mayflower Compact)に41人が署名した。この文書がアメリカの国の形となった。
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/e01_america/america1.html

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

かならずや王の首を刎ねるのだ、王冠を載せまま チャールズ1世の処刑(1649年)

チャールズ1世 より

1600年、スチュアート朝のイギリス王ジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)と、アン・オブ・デンマークの息子として生まれ、1625年に即位した。
王となった当初から高額の課税をおこない(おもにフランスでの戦費をまかなうため)、王権神授説を主張したので、臣民と議会の反感を買った。また、カトリックに好意的だったためにイギリス国教会とも衝突した(王妃に迎えたのは、フランス王の娘で、カトリック信徒のヘンリエッタ・マリアだった)。スコットランドにおいても不人気で、この地で有力だった教会の長老制を、より階層のはっきりした国教会制(主教を置く)に変えようとして、1936年と1640年の2度にわたる主教戦争を引き起こしている。イギリス内戦中は国王派を率いて戦ったが、議会派に捕えられて、軟禁状態に置かれ、その後、投獄されて1649年に処刑された。裁判のあいだにも、最後まで王権神授説を覆すことはなかった。

内戦とその結果 より

当初は国王派が優勢だったものの、議会派は1645年にオリヴァー・クロムウェルの主導で軍を再編し、翌年にチャールズ1世を降伏させた。しかし国王は2年後に再度戦いを挑んだ。この第2次イギリス内戦は、1648年のプレストンの戦いでの国王派の敗北で終結し、1649年に国王が処刑されて、クロムウェルを長とするイングランド共和国が成立した。
チャールズ1世と同様、クロムウェルも議会の扱いに苦労したが、いくつもの改革を断行した。クロムウェルは厳格なピューリタン式の統治を、スコットランド人やアイルランド人にまで容赦なくおこなった。クロムウェルの死後まもなく、禁欲的なピューリタニズムに辟易していた人々は、チャールズ1世の息子が亡命先から帰還するのを喜んで迎えた。こうして即位したチャールズ2世は、王権の制限を承諾し、プロテスタントの信仰を支持した。しかし、あとを継いだ弟のジェームズ2世カトリックだったため、イギリス国教会と対立し、プロテスタントを敵にまわした。
カトリックの王がふたたび誕生したことに対する不安はしだいに高まり、1688年、ついに名誉革命が起こって、ジェームズ2世は退位に追いこまれた。ジェームズ2世は国外へ逃れ、娘でプロテスタントメアリー2世と、夫のオレンジ公ウィリアム3世がオランダから呼ばれて、共同で王位に就いた。1689年には権利の章典が発布され、これによってメアリー2世ウィリアム3世は、陪審裁判など、臣民の基本的な権利を保障し、君主も国法に従うことを承諾した。それ以来、イギリスは立憲君主国であり、議会をしのぐ権力を持った王はチャールズ1世が最後となった。