じじぃの「歴史・思想_28_合衆国史・ニューアムステルダム」

New Amsterdam Trail: History of New York City

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HHFcB4S5qAk

City of New Amsterdam (New York)

In 1660

ニューアムステルダム

ウィキペディアWikipedia) より
1609年、アジアに通じる北西航路を発見するためオランダ東インド会社に雇われた英人ヘンリー・ハドソンが発見した。当時、アメリカ大陸の全容は未知であり、アジアに通じる北西航路があると信じられていたため、東インド会社が探検隊を送ったものである。
ニューヨークはオランダ人が25ドルでインディアンから買ったという話は単なる伝説のようだが、1626年頃、ハドソン川下流のマンハッタン島南端にオランダの植民拠点が建設され、ニューアムステルダム(ニーウアムステルダム)と命名された。
ニューネーデルラント植民地の主邑となったニューアムステルダムは1653年に正式に市の資格を与えられている。
当時は運河がはりめぐらされた土地であり、また侵入者に備えて防壁が随所に築かれた(ウォール街)。

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『植民地から建国へ 19世紀初頭まで シリーズアメリカ合衆国史①』

和田光弘/著 岩波新書 2019年発行

中部植民地 より

中部植民地とは、1660年の王政復古後にハドソン川デラウェア川の領域に成立した4つの領主植民地をさす。穀物の生産・輸出を特色としたため、「パンの植民地」とも呼ばれる。ハドソン川流域には早くからオランダ人が進出してパトルーン制(大地主制)を展開し、マンハッタン島のニューアムステルダムは貿易港として発展をみた。この時に築かれた防護壁がウォールストリートの期限である。また、後の大統領セオドア・ローズヴェルトとフランクリン・ローズヴェルトの先祖もオランダから入植している。
民族的にも多様なこのニューネーデルランド植民地は、第2次英蘭戦争に先立つ1664年、イギリスが占領し、ヨーク公(のちのジェイムズ2世)にちなんでニューヨークと改められ、さらに1685年には王領植民地となった。1735年、この植民地の総督を批判する新聞を発行したとして逮捕されたジョン・ピーター・ゼンガ―が、陪審裁判で無罪を勝ち取った事件は、報道の自由の勝利として記憶されている。
デラウェア川流域には当初、スウェーデン人が定住し、丸太小屋の工法を持ち込んでいたが、ニューネーデルランドに統合されたのち、英領となった。この地の植民に中心的な役割を担ったのが、「内なる光」などの内面的体験を重視し、絶対平和主義を掲げる新教徒、クエーカー教徒(フレンド派)である。各地で迫害を受けた彼らは、ニュージャージー植民地を避難所とすべく試みたが必ずしも成功せず、やがて植民地は王領化された。
一方、クエーカーに改宗したウィリアム・ペンは、海軍提督だった父が国王チャールズ2世に対して有していた債権を相続し、これち引き換えに国王からデラウェア川西方の広大な土地を得た。「ペンの森」、ペンシルベニア植民地の誕生である。彼はクエーカー教徒のみならず、今日まで自給自足の生活を送るアーミッシュ(再洗礼派の新教徒メノナイトの分派)など、ヨーロッパの諸宗派にも広く門戸を開き、さらに先住民との友好を追求するなど、自らの言う「神聖なる実験」を試みた。彼の名づけた「兄弟愛の町」フィラデルフィアは政治・経済の中心として繁栄し、また、ドイツからの入植者も多く、「ドイチュ」の訛りに起因する「ペンシルベニア・ダッチ」の語に今もその名残をとどめている。