Rise and Fall of the Ottoman Empire
Decline of the Ottoman Empire
『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』
臼杵陽/著 作品社 2018年発行
民族運動の新展開 より
民族自決の原則が適用されたのは旧オーストリア・ハンガリー(ハプスブルグ)帝国、あるいはロシア帝国の一部である。結局、民族自決の原則はヨーロッパ地域の諸民族においてのみ適用され、旧オスマン帝国領を含む、それ以外の地域のアジア・アフリカなどの諸民族に対しては適用さらなかった点がパリ講和条約の限界であった。すべての被抑圧民族に適用される普遍的原理としての民族自決ではなかったのだ。
民族自決とは、英語では”self-determination”つまり自己決定権のことである。民族単位に基づき自分のことは自分で決める事ができる。独立と同等の価値を持つ考え方だと言ってもいいだろう。これをアメリカのウイルソン大統領が提唱したのであるが、イギリスやフランスといった植民地宗主国は認めず、自らの植民地に関しては手づかずの状態にしておくべき画策した。その結果、敗戦国オスマン帝国の支配下にあり、英仏の委任統治の下に入った国々では民族に対する自決権は認められなかった。
民族自決権が認められなかった典型例としての九オスマン帝国領(アラブ地域)は第一次世界戦争後、ヨーロッパの国々の恣意的な線引きによって、一部の民族は分断されたし、国境線の引き方によっては複数の民族がその中に入ってしまう事態も起きた。基本的にナショナリズムは、国境線とその中に住んでいる人々が一致することが原則だが、そういったネイション(nation)としての民族(国民)とステート(state)としての国家が一致している国民国家(nation-state)の設立が事実上不可能に」なってしまったのが、第一次世界大戦後に恣意的な国境線が引かれたアラブの諸国家だったのである。
とは言いながらも、国民国家という新しい考え方は人々の心を捉え、その建設が目指されることもたしかである。ヨーロッパで生まれた考え方だが、独立した国々はその考え方を踏襲せざるを得なかった。つまり新たなかたちでの国境線の押し付けという中で、ヨーロッパからナショナリズムがもたされることになったのである。
もう一点、この中東地域の歴史で興味深いのが、ヨーロッパの植民地宗主国が戦争に関与する間に植民地において出て来た新たな動きである。
まず、民族資本家と言われる人々が、第一次世界戦争が契機となって影響力を持ち始めた。民族資本家の具体例を挙げると、エジプトのタラアト・ハルブ(1867-1941年)が有名である。今でもカイロのタラアト・ハルブ広場に銅像が建っている。彼はミスル銀行を創設した人でもある。
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また、欧米などの植民地宗主国で教育を受けた人々が後に民族主義的な政治指導者になっていく。パリ講和会議には、ベトナムのホー・チ・ミン(1890-1969年)等も駆けつけて民族自決の観点から独立を要求した。フランス植民地の場合は若い知識人たちはパリに出ることが多く、そこで教育を受けるので、フランス人の理屈をきちんと踏まえた上で議論をするような指導者たちが生まれてきた。
さらに、同時期にロシア革命(1917年)も起きたこの時期以降、民族運動に加えて、それぞれの地域において共産主義運動も開始される。有名な話だが、日本共産党は朝鮮半島や台湾の人々の民族解放運動と連動するかたちで動いていた。共産主義運動は、必ずしも共産主義革命を目指すだけではなく、民族解放という目標までも理念の1つとして抱え込んだのである。
中東においては、共産主義者になっていくのは民俗的・宗教的マイノリティーの人たちであった。宗教で言えばイスラーム教徒よりも、ヨーロッパの地域や思想を受け入れやすい立場にあったキリスト教徒やユダヤ教徒であった。
共産主義運動に関して特に悲劇的だったのがパレスチナである。パレスチナにおいては、共産党員はほとんどがユダヤ人で、それもロシアあるいはソ連から移民して来たユダヤ人ばかりであった。1935年に開催された第7回コミンテルン(インターナショナル)大会において、ここでいう民族資本家あるいは民族ブルジョワジーと共闘しながら革命を行うという戦術転換が行なわれた。その際、パレスチナ共産党の指導者だったユダヤ人はほとんどがパージされ、ソ連に追い返されて、その上でアラブ民族指導部が据えられたのである。ユダヤ人指導者はスターリン独裁時代の1930年代にそのほとんどが粛清された。コミンテルンによるパレスチナ共産党の「アラブ化」(共産党指導部をアラブ人に交代させる)の指令のために、追放されたユダヤ人指導者がソ連で非常に悲劇的な運命を辿ったのである。
そういった共産主義者の活動は、それぞれの地域の民族運動との矛盾を最も抱え込んでしまうことになった。結果的に、中東に関して言えば、共産主義運動が広がることはほとんどなかった。後の話になるが、1947年に国連でパレスチナ分割議案の採択が行なわた歳、グロムイコ・ソ連外相(1909-89年)が演説を行ない、ユダヤ人国家の創設にソ連が賛成票を投じた。そのためアラブ世界の一般のムスリムたちは、「ソ連がユダヤ人国家の建設を支持している」としてソ連をまったく信用しなくなり、共産主義運動はアラブ世界では影響力をほとんど持ち得なくなったのである。