じじぃの「歴史・思想_66_世界史大図鑑・スエズ危機」

07.26.1956: Suez Crisis - Nasser announces nationalisation

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Qt1Xah1qR14

Suez Crisis

Suez Crisis

National Army Museum
In 1956, British and French forces invaded Egypt in collusion with Israel. Although the military operation was a success, the political storm it caused led to a humiliating withdrawal that dealt Britain's global prestige a severe blow.
https://www.nam.ac.uk/explore/suez-crisis

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

われわれは、血と力でこれを守り、攻撃には攻撃を、悪には悪をもって応じる スエズ危機(1956年)

1956年7月26日、エジプトの指導者ガマル・ナセル大佐がスエズ運河の国有化を宣言した。西ヨーロッパへ向かう石油は、ほとんどがこの水路を通過する。エジプトの人々にとってこの国有化は、1880年代からつづいたイギリス帝国主義支配からの解放を象徴するものだった。ナセルの大胆な行動に対して、イギリス、フランス、イスラエル、が秘密計画を企てる。フランスはナセルの失脚を望んでいたが、これはナセルがアルジェリアのフランス植民地支配に抵抗する者たちを支援していたからだった。イスラエルにもナセル政権転覆を望む理由が多くあり、エジプトがイスラエルの船舶の船の運河通行を拒んでいたこともそのひとつである。3国が企てた筋書きは、イスラエルがエジプトを攻撃して、数日後にイギリスとフランスが調停役として介入し、運河の支配権を握るというものだった。1856年10月29日、イスラエルが攻撃を開始する。イギリス軍とフランス軍も10月31日に侵攻したが、たちまち停戦への外交圧力がかかった。アラブ諸国と良好な関係を育もうとしていたアメリカが、それが地域全体の安定を脅かすと考えたからだ。ドワイト・アイゼンハワー大統領は停戦を命じる国連決議を強行採決し、イギリス軍とフランス軍は退却を強いられた。これが第2次中東戦争スエズ危機)である。

分割された土地 より

中東での強い反西洋感情は数百年前からつづいていたが、西洋がこの地域に深く関与するようになると、さらに高まった。1800年代の植民地主義と第1次世界大戦後のオスマン帝国の分割は、イスラム教こそが最高の教えであると感じる人々にとって、つらく屈辱的な出来事だった。1948年にパレスチナが分割されてイスラエルが建国されると、パレスチナの地がアラブ人の国とユダヤ人の国のふたつに分けられ、これがアラブ人の猛烈な反発を呼んで、ひかのアラブ諸国を憤慨させた。
イラクレバノン、シリア、トランスヨルダン、エジプトなどアラブ諸国常備軍イスラエルを攻撃し、1948年5月から6月にかけて第1次中東戦争の初期戦闘が繰りひろげられた。戦争はアラブ人の敗北に終わり、パレスチナ人にとって悲惨な結果となった。国内の半分以上のアラブ人が土地を追われて難民となり、自分たちの国家を持つ望みは断たれた。

野心的計画 より

エジプトはイスラエルへの敵対姿勢を崩さず、イスラエル船舶のスエズ運河通行を禁止する。王政を打倒してファルーク王を亡命へと追いやると、ナセルはソヴィエト連邦連邦から武器を輸入して、来たるべきイスラエルとの対決に向けて武器を備蓄した。イギリスは1956年6月までに軍隊をスエズ地域から撤退させることを合意していたが、最後の軍隊がエジプトを去っても、ナセルはイギリスとアメリカからの資金をあてにし、それでエジプト発展の野心的計画の費用をまかなう気でいた。この計画には、ナイル川のアスワン・ハイ・ダム事業も含まれていた。ダム建設費用を援助する申し出をイギリスちアメリカが撤回すると、ナセルは感情を害する。イギリスちアメリカが手を引いたのは、ナセルがソ連と結びついていたことと、西側を絶えず避難していたことが理由だった。ナセルは屈辱を覚え、すぐにスエズ運河を国有化した。この動きはエジプトで公表を得た。この運河がアラブの誇りの源だったからだ。
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ナセルは世俗主義の近代化論者だった。宗教を政治の世界から分離する必要を説き、それがアラブ近代の特徴となると考えていたが、この考えは全員に歓迎されたわけではない。1928年にエジプトで結成されたムスリム同胞団は、イスラム教が政治で中心的な役割を果たすべきだと主張した。イスラム教に則(のっと)った法体型、シャリ―アに基づく統治を繰り返し求め、ナセルの暗殺を試みたが、この組織は1954年に活動を禁止された。
1967年、アラブ諸国第3次中東戦争イスラエルに大敗を喫し、イスラエルはエジプトからシナイ半島を、シリアからゴラン高原を、ヨルダンからヨルダン川西岸と東エルサレムを得た。