『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』
臼杵陽/著 作品社 2018年発行
「アラブ民族」の自覚 より
ここ(『アラブの現代史』1959年)で「アラブ」という時、念頭に置いているのが、オスマン帝国の支配を直接受けているアラブであり、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イラクといった東アラブ(マシュリク)地域である。すでに見てきたように、帝国主義の直接支配を受けたのは、オスマン帝国の中でも、エジプトを含む北アフリカの国々であった。しかし、ここで強調されているのは、帝国主義の時代には、植民地化されなくても、オスマン帝国のそれぞれの地域自体における支配が、帝国主義的な性格を帯びていったということである。この点がこの時代の様相を理解する際に重要になる。
エジプトのムハンマド・アリーによるシリア遠征の失敗後、オスマン帝国は1839年のギュルハネ勅令から1876年のオスマン帝国憲法(通称、ミドハト憲法)の発布に至る時期に近代化のための一連の諸改革をを行った。およそ37年間にわたるこの時期をオスマン史ではタンズィマート(諸改革)期と呼んでいる。この諸改革は内憂外患に状況に陥っていた帝国において官僚機構を改革し、近代的な軍隊を創設して、ヨーロッパ諸列強の脅威に対抗するものだった。
そして帝国主義の時代に入って、オスマン帝国のアブデュルハート2世(在位1876-1909年)は専制政治を布いた。ヨーロッパからの圧力に対して、帝国の支配領域を締め上げて一体化することによって対抗しようという意図であった。後に述べるように、オスマン帝国のような先進国と後進国のはざまにあった国家のこのようなあり方は帝国主義時代の表れと言っていい。
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先進国と後進国、あるいはヨーロッパとアジア、アフリカといった二分法では理解できない面があるということである。なぜこのようなことに言及しているのかというと、オスマン帝国のような中間の段階にある国も帝国主義化していったことを強調しているからだ。
福沢諭吉の『文明論之概略』の中では、ヨーロッパを先進地域として「文明国」と呼び、オスマン帝国と日本等については「半文明国」という表現を使っているが、その点がこの話とつながってくる。資本主義的レベルにおける発展という観点から見ると後進ではあるが、かといって完全に遅れているわけではなく、直接支配されるような「野蛮」な国ではない。中間段階にある地域を考える際には二分法では済まないということである。そのため、日本のような後進の帝国主義を考える際には、ヨーロッパとは違った特徴が出て来ることになる。
同時に、これまでも何度か見てきたように、バルカン地域においては、オスマン帝国からの独立運動が盛んになっていく。当時、この地域では、オーストリア=ハンガリー帝国が形成され(1867年)、ロシアの南下政策も進められた。バルカン地域の諸民族は、独立するか、オーストリア帝国(ハプスブルグ帝国)の中に組み込まれていくことになった。
バルカン諸国の独立はオスマン帝国にとっては大きな危機である。次第に領土を失っていく中、最後まで領土として持っていたアラブ諸国(シリア、レバノン、イラク、ヨルダン、パレスチナなど)を抑圧するというかたちで、オスマン帝国は何とか直轄の領土を守ろうとした。つまりオスマン帝国とアラブ地域の関係は二重、三重の支配の構造になっているわけである。
東アジアの例で言えば、ロシアの南下により、満州(中国東北部)、あるいは朝鮮半島が重要な問題の焦点になった結果、日本が日清・日露戦争で大陸に出ていったのと非常によく似た状況である。前近代におけるオスマン帝国の領土の統治は、単に帝国という傘を掛けていただけで、実際には間接支配であった。それが帝国主義時代になると、直接支配に変わらざるをえなくなった。それは政治的には抑圧というかたちをとるわけである。
そういった中で、アラブ人たちは「反トルコ人」という立場で民俗的自覚を持ち始める。フランス支配下に入ったアルジェリアやイギリスに占領されたエジプトは、欧米の植民地主義に対して直接的にナショナリズムを表現していった。一方、ここで言われている「アラブ」――シリア、レバノン、イラク、ヨルダン、パレスチナという、直接ヨーロッパの支配を受けていない東アラブ地域――においては、「トルコ民族」に対する「アラブ民族」の抵抗としてナショナリズムが興隆したのである。
再び東アジアに関連させて言えば、1910年以降、朝鮮半島は大日本帝国の支配下に入ったが、「日本帝国主義」に対して朝鮮ナショナリズムが勃興したのと非常によく似たパターンである。