Micro History - 1917 Balfour Declaration
The Balfour Declaration of 1917
バルフォア宣言
世界史用語解説
第一次世界大戦末期の1917年11月、イギリスがユダヤ人にパレスチナ国家建設を認めた宣言。それ以前にアラブ人の独立を認めたフセイン=マクマホン協定、フランスなどとのオスマン帝国領分割を密約したサイクス=ピコ協定と矛盾し、現在にいたるパレスチナ問題の原因となった。
●ユダヤ人国家の建設を認める
その文面の要点は「イギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人の民族ホーム A National Home の樹立に賛同して、目的の達成のために最善の努力を払う」という点であった。それには「パレスチナに現存する非ユダヤ人社会の市民的及び宗教的諸権利」を害することのないこと、という条件が付けられていた。
この宣言は、ユダヤ国家の建設を求めるシオニズムに「いい顔」をすることによって、パレスチナでの対オスマン帝国戦を有利に進めることと、ヨーロッパにおけるユダヤ系大資本の代表であるロスチャイルド家の支援を取り付けることを狙っていたのである。
矛盾した宣言
●矛盾した宣言
一方でイギリスは秘密協定であるフセイン=マクマホン協定ではアラブ人の独立を認め、サイクス=ピコ協定で戦後のフランスとの分割支配を密約していたので、それらと矛盾することとなり、大戦後のパレスチナ問題の原因を作ったといえる。 → パレスチナ(委任統治)
https://www.y-history.net/appendix/wh1501-055.html
ヴァイツマンと英国の政治指導者たち より
それにもかかわらず(トルコがドイツ側について参戦した)、より洞察力のある人々はオスマン帝国の辺境地域の分割に際して、英国が下す決定が非常に重大であることに気づいていた。その一人がハイム・ヴァイツマン(ユダヤ人政治家)であった。彼はヘルツル(ハンガリー生まれのユダヤ人)の死後、西欧において最も有力なシオニズムの主唱者であった。ハーバート・アスキス(イギリスの政治家)の演説に満足し、「今こそパレスチナに対してユダヤ人がちる態度を世界に向かって表明し、公に語るときがきた」と彼は書いた。ヴァイツマンはユダヤ史上、最も崇高な最も重要な人物の一人であった。シオニストの指導者として世界の政治家たちと交渉する際に、ヘルツルに匹敵する才能を示したばかりではなく、彼もその一人である東欧のユダヤ人大衆の代弁をすることができた。
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ハーバート・サミュエル(ユダヤ系の自由党の政治家)は冷ややかな無口の控えめな人であり、自分の意見を口外しなかったので、ヴァイツマンすら彼がシオニストであることに気がつかなかった。しかしトルコの大戦介入を利用する計画を抱いていたので、アスキスが演説したその日にサミュエルは外務大臣エドワード・グレイ卿を外務省に訪問して重大な話し合いをした。ユダヤ人のための民族の郷土についてどう考えているのかという質問にグレイは「この考えにいtでも強い感傷的愛着を覚えている。(中略)機会が訪れたらそのために働く用意が(彼には)ある」と言った。彼らは詳細について語り合った。サミュエル、は民族の郷土の範囲に「ベイルートとダマスコを含めるわけにはいかない。そこには同化することができない多数の非ユダヤ人が定着しているからだ」と警告し、「シリアの残る地域がフランス領に併合されるなら大いに有利だろう。(ユダヤ人)国家にとって、ヨーロッパ列強の1つが隣国であることはトルコが隣接しているよりはるかにいいからだ」と付け加えた。
この考えは後に、英国がパレスチナ、フランスがシリアとレバノンを取得するという英仏による領土分割として、サイクス・ピコ秘密協定で確定した国境線によって実現され、ヴェルサイユ条約によって発効した。
ロスチャイルドとバルフォア宣言
1917年11月2日付で発表された文書の主要部分は次のとおりである。「陛下の政府はユダヤ人のためにパレスチナに民族の郷土を建設することに好意を寄せ、この目標を達成するために最善の努力を払うものである。このことは、パレスチナに現存する非ユダヤ人諸共同体の市民的権利と遊興的権利、あるいは他の国家においてユダヤ人が享受している権利と政治的地位にいかなる不利益を蒙(こうむ)らせるものではないということは、明白に理解されなければならない」。この文書を手にそれを決定した閣議から出てきたサイクスが「ヴァイツマン博士、(生まれたのは)男の子ですよ」と言った。文書を吟味したのちヴァイツマンは、「最初、わたしはこの子がすくではなかった。この子はわたしが期待していたものではなかった」と言った。
それにもかかわらず、バルフォア宣言はジグソーパズルの嗅ぎとなる一片であった。この宣言がなければユダヤ人の国家は絶対に実現しなかったであろう。ヘルツルとヴァイツマンのおかげで、ユダヤ人はようやく間に合ったのである。世界中で民族主義と民族統一主義が時代の流れであった。連合国が被支配民から責めたてられていたことは、来たるべき勝利と平和が、人種の違いであれ言語の違いであれ、厳密な人口調査の統計に基づいて彼らに領土的権利を保障することであった。ユダヤ人はパレスチナに対して、非現実的であるが歴史的な請求権をもっていた。しかしそれは非常に古いものであり、ヴェルサイユ条約で適用された基準によると、実際のところ彼らには何の権利もなかった。バルフォア宣言が公表されたとき、パレスチナには総人口60万人のうち8万5000人から10万人のユダヤ人が住んでいた。その他の住民はほとんどアラブ人であった。もしアラブ人が一致協力して戦争中に外交的に適切な組織的活動をしていたら、あるいはもしパレスチナのアラブ人が少しでも組織されていたとすれば、疑いなくバルフォア宣言は絶対に公表されなかったであろう。たとえそれが12ヵ月後であっても不可能であったと思われる。
実際ヴァイツマンは二度と開かない運命の扉が一瞬開いた機会をとらえて、シオニストをその中に引き入れたのである。