じじぃの「歴史・思想_350_ユダヤ人の歴史・英国統治下のパレスチナ移住」

Palestine Population & Jewish Immigration

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2yBolHdMejM

Israel/Palestine: Arab/Jewish Population (1914-2005)

ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

2大戦間の英国の政策 より

1922年に常に親シオニストであったチャーチルが移民制限を解除した。しかし同年に公表された彼の白書で、移民は制限されなくてもよいが「シン移住者を吸収するときに国土の経済的収容能力を」反映するものでなければならないということが初めて強調された。実際には、これは2500ドルあることを示せばユダヤ人が移民ビザを取得できることを意味した。その結果、ミズラヒ型の資本家移民が絶対多数になるとハイム・ヴァイツマン(ユダヤ人政治家)は主張した。それをジャボティンスキー(ソ連シオニズム運動指導者)は二次的なことだと考えた。まず重要なことは人数だ。ヴァイツマンと英国政府が彼らのペースで問題を処理し、たとえば何百年かかろうともユダヤ人のパレスチナをハルツィーム(開拓者)の国にすることを保証していることがジャボティンスキーには気に入らなかった。彼は急速な発展を望んだ。振り返ってみると、醜悪な現実に対して、ヴァイツマンや英国政府よりも強い直観力をもっていたと言わなければならない。
ジャボティンスキーは英国の移民管理を受け入れる気は毛頭なかった。このことがユダヤ人政策立案者の独占的問題になることを望んでいた。彼の考えによれば、彼ら立案者は緊急問題として国家機構設立に向かって前進すべきであった。これらの理由から、1923年に彼はシオニスト執行部を去り、2年後にシオニスト修正派同盟を創立した。その目標は、ユダヤ資本主義の資源を最大限に利用して「最短期間内に最大級のユダヤ人」をパレスチナへ連れてくることであった。彼は東欧、特にポーランドで非常に多数の信奉者を惹きつけた。ポーランドでは修正派の戦闘的青年団ベタルが制服を着用して教練と射撃訓練を始めた。青年メナヘム・ベギン(1977年から1983年までイスラエルの首相を務めた)は彼らを組織した人物であった。その目的は、抑えがたい意志をたった一度の急激な行動に移すことにより、ユダヤ人国家を達成することであった。
実際3人のユダヤ人指導者は全員、1920年代にパレスチナ移住を望むユダヤ人の自発性の実態を過大評価していた。戦争直後の混乱、特にポーランドウクライナで起きたポグロムの他、他の人々と同様にユダヤ人も20年代の繁栄にあずかっていた。ハイファに向かう船に乗船をうながす力は衰えた。1920年と21年の暴動も移住する気をそいだ。確かに1920年代にパレスチナユダヤ人口は2倍に増えて16万人になった。同様に農業定着地も増えた。20年代末までに110の農業定着地を数え、そこに雇用された3万7000人のユダヤ人が17万5000エーカーの農地を耕作していた。しかし移民の総数は10万人にすぎなかった。しかもその4分の1は定着しなかったので、移民の実数は年間8000人にすぎなかった。実際20年代の繁栄の頂点を極めた1927年にはわずか2713人が移住し、5000人以上がパレスチナを去った。世界経済の分岐点になった年、1929年に入国者と出国者の人数はちょうど均衡がとれた。
このようにして絶好の機会を失ったことが悲劇を生み出した。パレスチナが比較的開放的であった平穏な年月にユダヤ人は来ようとしなかった。1929年から彼らの経済的、政治的地位、そして何よりも彼らの安全が全ヨーロッパで崩壊し始めた。しかしパレスチナへ行きたいという彼らの願望が増大すると同時に、パレスチナ入国に対する障害も大きくなった。1929年にはさらにアラブ人のポグロムが起こり、150人以上のユダヤ人が殺害された。
英国の対応は依然と同じように移民を制限することであった。労働党の植民地相ロード・バスフィールドは好意的ではなかった。1930年に作成された彼の白書は、最初の紛れもない反シオニズム的な英国政府の公文書であった。彼の妻ベアトリス・ウェブは、「パレスチナで数十人のユダヤ人が殺害されたといって、なぜユダヤ人がこれほど大騒ぎをするのかわたしには理解できません。ロンドンでは毎週交通事故で同じくらい死ぬけれど、誰も気にとめていないのではないですか」とヴァイツマンに言った。英国首相ラムゼー・マクドナルドはもう少し分別があったので、彼の指示によって移民は再開された。