じじぃの「歴史・思想_357_ユダヤ人の歴史・イスラエルの建国」

Military Demonstration In Israel (1948)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Vk-DOWFOdVY

The State of Israel is born (1948)

建国とパレスチナ戦争

イスラエルの建国
パレスチナの地にヨーロッパ各地から移住してきたユダヤ人が、アラブ人との対立を深めパレスチナ問題が深刻になると、第一次世界大戦以来この地を委任統治していたイギリスがその期間満了を機に国際連合に解決を一任した。
その結果、1947年の国際連合総会において、パレスチナ分割案勧告決議が成立した。それは、パレスチナの地を二分するが、両者の区域が混在する複雑な区分であった。ユダヤ人はそれを受け入れて、1948年5月14日にイスラエルという新国家を建設し独立宣言を行った。初代首相はベングリオンイスラエルの建国は、19世紀後半に起こったシオニズムの帰結であった。ユダヤ人は古代のパレスチナがローマの属州になって滅亡し、ユダヤ人が離散してから約2000年を経て、ようやく民族の国家を再建したこととなり、そのことを旧約聖書の「出エジブト」(エクソダス)に喩えている。
パレスチナ戦争の勃発
イスラエルの独立宣言の翌1948年5月15日、周辺のアラブ諸国からなるアラブ連盟はそれを認めず、一斉にイスラエル領内に侵攻し、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発した。イスラエル側はこの戦争を「独立戦争」と称している。イスラエル軍アラブ諸国の歩調の乱れに乗じて個別に休戦協定を結び、国連のパレスチナ分割案よりも広い領域を占領し、独立を確保、さらに国際連合に加盟して国際社会に承認された。 → 中東戦争
5月14日はイスラエルが独立宣言を行った日で、独立記念日とされているが、イスラエル建国のためにパレスチナを追い出された難民にとっては、苦難の始まりを意味していた。現在に続くパレスチナ問題の始まった日でもあり、パレスチナのアラブ人はこの日を「大災厄(ナクバ)」といってその苦難を忘れないようにしている。
https://www.y-history.net/appendix/wh1601-146.html

ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

ホロコーストに見る神の摂理 より

ホロコーストと新しいシオンの間には、有機的なつながりがあった。ユダヤ人600万人の殺戮がなければ、イスラエル建国はなかった。それは「受難を通じての救済」という、古代から途絶えることなくユダヤ人の歴史に繰り返し現れる力強い主題と一致するものである。何万人という敬虔なユダヤ人たちが、信仰を告白する歌を歌いながら、ガス室へ向かって追い立てられて行った。ユダヤ人の受ける懲罰は神の御業(みわざ)である。そのこと自体、神がユダヤ人を選んだ証拠だ。ヒトラーや親衛隊はそのための手先にしか過ぎない。彼らはこう信じていたのである。預言者アモスによれば、神は、「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する」(アモス書3章2節)といわれた。アウシュビッツの受難は、単なる偶発的な出来事ではない。神は絶対的な道徳基準をさし示したのである。それは神の計画の一部であり、来たるべき栄光を確かにするものであった。神は、ただ単にユダヤ人に怒りをぶつけたのではない。神もまた悲しまれ、ともに涙されたのである。神は彼らと一緒にガス窒へ入っていかれた。ユダヤ人が祖国を追われ海外に離散したとき、共にあらわれたと同じように。
これがホロコーストの原因と結果についての、宗教的哲学的な記述である。歴史的視点に立っても同じことがいえる。イスラエルの建国は、ユダヤ人受難の結果であった。

英国の撤退とイスラエルの建国 より

1947年5月、パレスチナ問題が国連の議題に上った。解決案起草を求められた特別委員会は、2つの案を提出した。委員会少数派は2民族からなる連邦国家を提案したが、多数派はユダヤ人国家とアラブ人国家を創設しエルサレムを別途国連の管理下に置く、新たなパレスチナ分割案を推した。1947年11月29日、トルーマンの断固たる支持を得て、新分割案は国連総会で可決される。賛成33票、反対13章、棄権10票が投じられた。
のちにソ連アラブ諸国は、イスラエル国家の創設が資本主義者と帝国主義者の陰謀だと信じるようになった。この考えは国際的な左翼陣営からも全般的な支持を得ている。しかし事実は異なる。米国国務省と英国外務省はいずれもユダヤ人国家成立を望んでいなかった。そのような国家の誕生は西側陣営に最悪の結果をもたらすと予見したのである。英国陸軍省ユダヤ人国家の創設に強く反対したし、米国の国務省も同じ立場を採った。国防長官のジェイムス・フォレスタルはユダヤ人ロビーを激しく非難し、「この国においては、いかなるグループといえども、国家安全保障を脅かすようになるほどまで、われわれの政策に影響を及ぼすことがを許されるべきでない」と述べた。英米の石油会社による新国家建設反対は、一団と激しかった。石油産業を代弁し、カルテックスのマックス・ソーンバーグは、「トルーマンは米国の道徳的威信を失墜させてしまった」、「米国の理念に対するアラブの信頼」を打ち砕いたと述べた。英国にも米国にも、イスラエル国家創設を支援する有力な勢力が経済界にはまったく見当たらなかった。いずれの国でもイスラエルの友人の圧倒的多数は、左翼陣営に属していた。
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1947年11月29日に国連総会で行われた決定的評決では、ソヴィエト・ブロック全体がイスラエルの望み通りに票を投じ、それ以降ソヴィエトと米国の国連代表団は、英国のパレスチナ撤退に関するタイム・テーブルを密接に協力し合って作成したのである。それだけではない。1948年5月14日にイスラエルが独立を宣言し、トルーマン大統領がただちにその実効支配を承認したのに対し、スターリンはもう1つ上をいき、3日足らずのうちにイスラエル共和国を国際法上の正統な政府として正式に承認した。おそらく最も大きな意味があったのは、スターリンの指示に基づき、チェコ政府が新生国家イスラエルへの武器売却を決定したことであろう。チェコのある飛行場全体が、テルアビブへの武器輸送のために提供された。
イスラエルの誕生と存続にとって、このタイミングはまさに紙一重であった。スターリンは1948年1月、ロシア系ユダヤ人俳優のシュロモ・ミホエルスを殺害される。この事件はスターリンの強烈なアンティ・セミティズムが政策として現れる端緒だったように思われる。海外における反シオニズムへの転換はこれよりも遅いが、同年の秋までに決定的となる。しかしながらこの時期までに、イスラエルは国家としての存在を確かなものとしていた。
米国の政策も変わりはじめていた。冷戦のもたらず緊張が増すにつれ、戦後みられた米国の理想主義が弱まり、トルーマン国防省国務省の助言を以前より注意深く聞かざるをえなくなった。もし英国の撤兵があと1年遅れていたなら、米国はイスラエルの建国についてはるかに不熱心であっただろうし、ソ連が反対したのはまず間違いない。こうして英国の政策にテロで立ち向かった作戦は、おそらく建国実現にとって決定的な意味があった。1947年から48年にかけての数ヵ月という短時間、偶然に開かれた歴史のすきまから滑り込むような形で、イスラエルはこの大事業を成しとげたといえよう、これもまた幸運、あるいは神慮であった。
しかしながら、もしメナヘム・ベギン(1977年から1983年までイスラエルの首相を務めた)の容赦なさが英国の早期撤兵をもたらしたとするなら、イスラエル国家誕生を可能としたのはベン・グリオン(イスラエルの初代首相となった)だった。一歩間違えばパレスチナユダヤ人を破滅に追い込みかけない決定を、立て続けに行なわねばならなかった。
国連でパレスチナ分割案が採択されるや否や、アラブ人はすべてのユダヤ人入植地を破壊する決意を固め、即座に攻撃を開始した。