じじぃの「科学・芸術_793_ユダヤ教・20世紀のユダヤ人」

Bilder aus der Holle - KZ Auschwitz Doku HD Teil 2

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8djlbLWknU0

ユダヤ人とユダヤ教

 市川裕/著 岩波新書 2018年発行

国民国家のなかで より

メンデルスゾーン(1729-86)が没したのはフランス革命の3年前であった。彼の思想に共鳴したドイツの官僚クリスティアン・ドームは、ユダヤ人に対するドイツ人の偏見に果敢に挑戦する論文を書き上げた。その思想がフランス革命の指導者に受け継がれる。フランスの人権宣言はユダヤ人も対象とされ、革命議会においてユダヤ人への市民権付与が決定された。近代国家の設立に伴って、ユダヤ人も同等の権利をもつフランス国民の一員となったのである。
これがユダヤ人たちにとっていかに衝撃的なことであったか。それは、ユダヤ人への迫害の歴史を思えば理解できるであろう。ユダヤ人に対する偏見は容易には改善しなかったが、後に、ナポレオンが、ユダヤ教政経分離を要請するべくヨーロッパ全域からラビを召集したとき、ラビたちはナポレオンを「神に選ばれた人」として称賛した。信教の自由を認めながら、市民権を与えたことに賛辞を贈ったのである。
このときからユダヤ教は、トーラー(モーセ5書)のうち神と人との関係を律する宗教的戒律を要素とする、近代憲法がいうところの「宗教」に変わったといえるだろう。
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ここで東欧に目を転じてみよう。ポーランド分割によりロシア帝国に組み込まれたユダヤ人は、ロシアの同化政策や厳しい徴兵制度に苦しみながらも、19世紀末には500万人もの人口を擁するに至った。ロシアでもかつてのポーランドと同様のシュテットル(イディッシュ語で小都市)が発展している。
ところが、1881年、皇帝アレクサンドル2世が暗殺され、一味にユダヤ人女性が含まれていたことから、ユダヤ人への憎悪が一挙に沸騰した。帝国が設定した「ユダヤ人居住区域」内にある多くの都市でユダヤ人への暴力と迫害が連鎖的に起こり、多くの死者を出すとともに家屋や商店が破壊された。そのあまりの惨状に、ロシア語で破壊を意味する「ポグロム」がユダヤ人の迫害と虐殺を指す言葉となった。
その後、ユダヤ人への憎悪がますます顕在化するなか、1903年には、キシニョフ市(キシナウ市)で再びポグロムが発生する。なたで手足を切断する凶悪な暴力により多くの死傷者を出し、ロシアに住むユダヤ人は生存の危機に追い込まれた。こうした一連のテロの恐怖は、ロシアのユダヤ知識人から国民国家への同化の夢を奪った。皇帝暗殺事件は、社会主義革命運動に身を投ずる者やパレスチナへの移住を促す者(「シオンを愛する者たち」ホヴェヴェイ・ツィオン)を生み出すとともに、欧米への移住を目指す大きな波を生むことにもなった。アメリカへ移住したロシア系ユダヤ人は、1924年アメリカ移民法が改正され入国に制限が課せられるまで、じつに200万人以上に達している。
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かつてプロイセンのユンカー(大地主貴族)が保持していた、服従、勤勉、倹約、柔和、敬虔、忍耐、謙遜、宗教的寛容といった精神的態度は、19世紀の初めに従来の差別的法律を撤廃し、ユダヤ人をドイツ社会に受容する要因にもなった。こうした寛容なドイツ社会は、第一次世界大戦の敗戦につづくわずか十数年で影を潜めた。第一次世界大戦後のドイツが、ヴァイマール憲法個人主義自由主義からナチズムの民族主義全体主義へと急旋回したとき、ユダヤ人の悲劇が起こる。ショア―である。ドイツのユダヤ人は、差別・隔離・殺戮の地獄へと突き落とされた。ナチズムはやがて、東欧全域におけるユダヤ人の生存の脅威になっていく。
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第二次世界大戦終結後、東欧におけるユダヤ人の大虐殺は「ホロコースト」という言葉で、アメリカによって初めて世界に知らされた。ホロコーストという言葉は元来、ユダヤ教のなかでも最も神聖な「全燔祭(ぜんはんさい)」(すべてを焼き尽くす意)をギリシャ語に翻訳したときの言葉である。これは第2の意味として「ユダヤ人大虐殺」が加わった。死後の復活を希求するユダヤ教は土葬を原則とするが、ナチスによって火に焼かれた過酷な現実を、まるで聖書の供犠(くぎ)に比するかのような言葉で表現することに違和感を覚える人びともいる。彼らは、この人類史上稀にみる蛮行に対して、ヘブライ語で破壊を意味する「ショア―」の語を用いている。