じじぃの「歴史・思想_345_ユダヤ人の歴史・ロスチャイルド家」

The Jews' Oath vs. Rothschild (This Week in Jewish History) Dr. Henry Abramson

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kN8iccSp3K0

ロスチャイルド家 (ドイツの別荘)

ロスチャイルド家

ウィキペディアWikipedia) より
18世紀後半にフランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行家として成功し宮廷ユダヤ人となった。彼の五人の息子がフランクフルト(長男アムシェル)、ウィーン(二男ザロモン)、ロンドン(三男ネイサン)、ナポリ(四男カール)、パリ(五男ジェームス)の五ヵ所に分かれて銀行業を拡大させた。二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった。この他、一家はスペインのMZA鉄道(マドリードサラゴサアリカンテ鉄道)と上部イタリア鉄道(Societa per le Ferrovie dell'Alta Italia)もファイナンスした。近代化しつつあった郵便事業にも関わっていた。記事にはロスチャイルド家所有の建築物が多数掲示されている。その大部分は大不況 (1873年-1896年) のときに築造・再建・取得されている。もっとも、写真がないシャトー・ド・プレニーは1858年に落成し、大不況をすぎた1900年に遺贈された。

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ユダヤ人の歴史〈下巻〉』

ポール ジョンソン/著、石田友雄/監修、阿川尚之/訳 徳間書店 1999年発行

ロスチャイルド家の生き方 より

このように(土地を所有することや商取引を行なうことなど)解放の過程が遅々とした不確実なものであったことを考えるなら、どうしてあれほど多くのユダヤ人が教徒が洗礼という手段によって社会への「入場券」を手に入れたのかが理解できる。しかし19世紀には、ユダヤ人であるという「問題」を解決する他の手段もあった。

多くのユダヤ人にとって理想的な解決法は、ロスチャイルドロートシルト)家が見いだした方法であった。彼らは18世紀経済の新たな現象である私設銀行も最も著名な代表者である。そのような私設の金融機関は主に宮廷ユダヤ人の子孫たちによって設立されていた。

しかし、このうち洗礼も倒産も避けることができたのは、ロスチャイルド家だけであった。彼らは非凡な一家であり、困難で両立し難い4つの事柄を同時に成し遂げたのである。つまり、莫大な財産を迅速かつ実直に得ること。多くの政府との信頼関係を保ちながら財産を広く分配すること。継続して高い利潤を上げ、しかも大衆の敵対心を呼び起こすことなしにそれを消費すること。そして、法的に。またおおむね精神面でもユダヤ人であり続けることであった。彼らほど資産を築き、それを思うままに活用し、それでいて人々の間で評判を保ち続けたユダヤ人はかつてなかった。
しかし、ロスチャイルド家はとらえどころのない一家である。彼らについて書かれた本で、参考になりしかも正確だと言えるようなものは1冊もない。
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ライオネルとシャルロッテの結婚は、ユダヤ人街にあった一族の古い屋敷で祝われた。そこには、19人の子どもをもうけた。84歳になる兄弟たちの母親グドゥーレ・シュナッパースが住んでいた。彼女はこの後さらに10年生き長らえる。ネイサンの死ははなはだ重要な出来事であった。そのニュースを載せてロンドンに向けて飛ばされた伝書鳩はブライトンで射落とされたが、フランス語で「彼は死んだ」という暗号のメッセージを運んでいたと言われている。しかし、彼の支点N・M・ロスチャイルド社は会社の権力の中心であり、勢力を伸ばし続けた。それも当然だった。なぜなら、ロンドンは世界の金融の中心地であり、ロスチャイルド家は最も信用できる中心勢力だったからである。1860年から1875年の16年間に、外国政府は7億ポンド以上をロンドンで調達した。それにかかわった50の銀行のうち10の銀行がユダヤ系であったが、その中にはハンブロ、サミュエル、モンタギュー、ヘルバート・ワグといった重要な名前が含まれている。しかし、ロスチャイルド家は、その50の銀行の中で最も重要で、最も多様な役割を担っていた。

ユダヤ的な英国社会 より

金もうけの能力(金を楽しく使うのは当然のことだが)を含めて、ユダヤ的才能を余すところなく発揮したロスチャイルドのやり方を、大いに評価すべきであると最初に気づいたのはディズレーリ(イギリスの政治家)であった。彼は若い頃ガナーズベリーでロスチャイルドから歓待を受けたことがあり、姉妹のハンナに当てた手紙の中で次のように書いている。「わたしは、わたしたちの古くからの友人エイミーにとてもよくしてもらった。彼女はわたしに見事な亀をもってきてくれた。彼女がくれなければ、わたしがあんな亀を手にすることはなかっただろう」(1843年)。どんな機会にも十分な支持者を得ることができるロスチャイルド家は、ユダヤ民族の偉大なる宝である、とディズレーリは考えた。彼は『コニングスピー』という小説を1844年に出版したが、後に見るように、その同じ年にマルクスは「ユダヤ人問題」についてひどく有害な考えを述べている。ディズレーリの小説に登場する。すべてを見通す賢明な指導者、ユダヤの超人シドニアは、ライオネル・ロスチャイルドがモデルである。これは実物以上の美化された人物描写であった。当時ディズレーリは、ロスチャイルド家の人々の行動を素材にミステリーやドラマを作ったのとまったく同じように、彼らの賢明さや先見の明を常に誇張しようとしていたのである。1876年のエジプト総督の株の買い入れをセンセーショナルに扱ったのはディズレーリであり、一族に関して生まれつつあった、馬鹿げた、しかしディズレーリの眼には貴重で創造的な神話の多くは、いわば彼に責任がある。
もちろんディズレーリは、魔法のおとぎばなしのようにロスチャイルドの成功を書き表すことが、英国のような寛容な政治的社会風土の備わった国でしか効果がないことは、十分にわかっていたはずである。1826年にすべての制限が取り除かれて以降、ユダヤ人はどこからでも自由に英国に来ることができた。いったん入国して帰化した後の彼らの身分について、大法官ブルームは1833年に次の言うに要約している。「国王の臣民でユダヤ教を信仰する者は、国王の他の臣民と同じくすべての権利、特権、恩恵を与えられている。ただし、そのような権利、特権、恩恵を彼らから奪うような法律が別途制定されている場合は除く」。そのような制限は確かに存在していたし、ユダヤ人は先例を通してそれらを見つけ出した。しかし、いったん障害が明らかにされ非難をうけると、議会や適当な団体がユダヤ人に平等の権利を与えるよう行動した。例えば、ブルームの宣言が行なわれた1833年ユダヤ人は弁護士の職につくことを許されている。13年後、ユダヤ人が自由に土地を所有できるかとうかという難問が、法令によってユダヤ人に有利に解決された。
さらにもっと早い時期から、英国はユダヤ人を迎え入れるだけでなく、海外でユダヤ人を援助する用意さえあった。
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1838年パーマストン(イギリスの政治家)はエルサレムの最初の西欧の副領事にW・T・ヤングを任命し、「ユダヤ人全体を守るよう」通達した。2年後、彼はコンスタンティノーブルの英国大使であったロード・ポンソンビーに手紙を書いて、ヨーロッパから来たユダヤ人たちのパレスチナへの帰還を許可するよう、トルコに圧力をかけることを指示している。ロスチャイルドの資金援助を受けた勤勉なユダヤ人入植者は、トルコ帝国の資産を大いに増やすであろうし、その地の文明の向上を促進するであろう、と彼は主張している。シャフツベリー(イギリスの思想家)は言っている。「パーマストンは、神の古き民に役立つ道具としてすでに神によって選ばれていたのだ」。ポンソンビーへの手紙は、彼に言わせれば「キュロス王(紀元前538年に「バビロン捕囚」のユダヤ人を解放したペルシャの王)の勅令の再来を告げる前奏曲」であった。