じじぃの「歴史・思想_684_半島の地政学・アナトリア半島」

【山口】下関市がトルコ地震募金を開始

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=UjfizCMGAJk

2月6日にトルコ南東部で起きた地震によって甚大な被害が発生した


トルコでの地震について

2023-02-08 在日クルド人と共に
2月6日にトルコ南東部で起きた地震によって甚大な被害が発生しています。
私たちが活動している埼玉県南部には、トルコから来たクルド人が大勢住んでいます。
震源地に近いガジアンテップやその周辺の出身のかたが大半です。
深刻な揺れのあった地域では、橋や道路が寸断されました。
http://kurd-tomoni.com/earthquake0208/

「半島」の地政学――クリミア半島朝鮮半島バルカン半島…なぜ世界の火薬庫なのか?

内藤博文(著)
【目次】
序章 半島はなぜ、いつも衝突の舞台となるのか?
1章 バルカン半島に見る大国衰亡の地政学
2章 朝鮮半島に見る内部分裂の地政学
3章 クリミア半島に見る国家威信の地政学
4章 国際社会を揺らす火薬庫と化した4つの半島
5章 世界を激震させる起爆点となった4つの半島

6章 見えない火種がくすぶる4つの半島

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『「半島」の地政学

内藤博文/著 KAWADE夢新書 2023年発行

6章 見えない火種がくすぶる4つの半島 より

なぜ、ユーラシア大陸勢力にとって「行き止まりの回廊」なのか? アナトリア半島

アナトリア半島は、現在のトルコが位置する半島である。たんに「アナトリア」と呼ばれることもあれば、「小アジア」とも呼ばれてきたが、実質は半島そのものである。北には黒海、西にはエーゲ海、南には地中海が広がっている。

アナトリア半島の特徴は、バルカン半島につながる位置にあるところだ。バルカン半島とともに、黒海を形成している。アナトリア半島の西北には、ボスポラス海峡マルマラ海、チャナッカレ(ダーダネルス)海峡があり、その向こう岸がバルカン半島となっている。
現代のトルコは、バルカン半島側にも領土を有し、最大の都市イスタンブールバルカン半島側にある。

アナトリア半島は、じつにややこしい半島である。ひとつには、見る角度によって
さまざまな側面を持っているからだ。

ギリシャから見れば、アナトリア半島の海岸部は、かつては勢力圏でもあった。古代ギリシャの時代以来、ギリシャ人たちはエーゲ海周辺での植民活動に意欲的であり、アナトリアエーゲ海沿岸や周辺の島々にはギリシャ人たちの都市があった。

こうした歴史的経緯から、20世紀にトルコ共和国が成立したのちも、アナトリア半島エーゲ海沿岸にある島のほとんどはギリシャの領土になっている。トルコは、エーゲ海ではギリシャより劣勢になっている。

そのエーゲ海沿岸まで進出したギリシャ人たちも、アナトリア半島全体を支配しようとはしてこなかった。アナトリア半島も多くの半島の同じで、山に覆われていて、多くの盆地や谷を抱えている。アナトリア半島の内陸への進出には抵抗も多く、ギリシャ人たちの進出も沿岸部までにとどまっていたのだ。

一方、ユーラシア大陸にある勢力にとっては、アナトリア半島は「行き止まりの回廊」であっあ。古代から、ユーラシア大陸の中央やイラン高原などから、巨大な勢力が登場し、アナトリア半島にも進出しようとしてきた。古代のアケメネス朝(古代ペルシア帝国の王朝)はアナトリア半島をほぼ手中にしたし、イスラム勢力やモンゴル帝国も、アナトリア半島に食いこんでいった。

けれども、彼らの勢力拡大はアナトリア半島で行き止まりとなった。彼らは、ボスポラス海峡を渡れないか、あるいはアナトリア半島の山岳地帯で立ち往生してしまっていた。
アナトリア半島は征服・統治のむずかしい「要塞」であるうえ、海を渡る技術のない者たちにとっては行き止まりの地であったのだ。

半島ゆえにトルコが今、直面している問題とは アナトリア半島

19世紀になると、オスマン帝国バルカン半島から追い出されていく。民族主義が世界に広まる時代になると、バルカン半島民族意識は支配者であるオスマン帝国という敵を見つけて盛り上がる。

こうしてオスマン帝国バルカン半島の大半を失ったとき、唯一残っていたのがアナトリア半島である。20世紀、オスマン帝国が消滅したのち、アナトリア半島トルコ共和国として出発し、現在に至っている。

ただ、現在トルコは人工国家のような側面がある。長かったオスマン帝国時代に、アナトリア半島の住人にオスマン帝国に対しての忠誠はなく、自らが何人(なにじん)という意識はなかった。「トルコ人」という意識もなかった。トルコ人を定義する物差しも何もないまま、20世紀にはトルコとして出発することになったのだ。

いまのトルコがオスマン帝国とは別物であろうとしたことは、アンカラに都を移したことが象徴している。そもそも、オスマン帝国の全盛期にアナトリアは帝国の一部にすぎず、帝国の中心でも何でまない。オスマン帝国の衰退期が惨(みじ)めであったことも手伝い、いまのトルコはオスマン帝国とは別物であろうとした。トルコは、オスマン帝国最後の皇帝に何の敬意も払わず、自国から追放している。

その現代トルコが直面したのは、アナトリア半島の統治のむずかしさだ。アナトリア半島の東南部にはクルド人たちがいて、つねに独立を訴えているだけではない。半島国家であるトルコは、他の半島がそうであるように、多くの少数民族を抱えている。アラブ人、グルジア人、ギリシャ人、アルメニア人、アルバニア人ら10以上の少数民族があり、彼らの言語がある。

そもそも、トルコで多数派の「トルコ人」というものが何なのかも、本質的にはわからないままである。トルコ人の民俗的な定義が定かでないからだ。

現代のトルコは、「統治不能」のアナトリア半島の地で苦しんでいる。だから、エルドゥアンのような強権の政治家が登場しているのだといえるが、現実が困難であるがゆえに、トルコは切り捨てたはずのかつてのオスマン帝国の夢を見ようともしている。

いまのトルコがバルカン半島の諸国に近づき、密接にもなろうとしているのも、そのためだろう。2020年のナゴルノ=カラバフ紛争(アゼルバイジャン領内のナゴルノ・カラバフ(NK)自治州の帰属を巡るアルメニアアゼルバイジャン間の紛争)にあって、トルコが同じトルコ系のアゼルバイジャンを支援したのも、その延長線上にあるのではないか。