じじぃの「歴史・思想_677_半島の地政学・クリミア半島」

クリミア戦争

 クリミア戦争(Crimean War)は、衰退したオスマントルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。
その発端はエルサレムにあるキリスト教の聖地の管理権をめぐるロシアとフランスの対立だった。エルサレムの町はオスマントルコが支配していたが、聖墳墓協会などのキリスト教関連施設の管理権はフランスが握っていた。しかし、その管理権はフランス革命の混乱期にロシアに渡り、その後フランスのナポレオン3世がトルコに圧力をかけて取り戻した(1852年)。
これにロシアは反発、トルコに聖地管理権を戻すように要求し、ギリシア正教徒を保護するためロシア軍のトルコ領内進駐を迫った。トルコはこの要求を拒否しクリミア戦争が始まった(1853年7月)。ロシアの狙いは地中海への出口確保(南下政策)であり、イギリスやフランスはトルコを支援した。
https://www.vivonet.co.jp/rekisi/b09_osman/crimeanwar.html

「半島」の地政学――クリミア半島朝鮮半島バルカン半島…なぜ世界の火薬庫なのか?

内藤博文(著)
【目次】
序章 半島はなぜ、いつも衝突の舞台となるのか?
1章 バルカン半島に見る大国衰亡の地政学
2章 朝鮮半島に見る内部分裂の地政学

3章 クリミア半島に見る国家威信の地政学

4章 国際社会を揺らす火薬庫と化した4つの半島
5章 世界を激震させる起爆点となった4つの半島
6章 見えない火種がくすぶる4つの半島

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『「半島」の地政学

内藤博文/著 KAWADE夢新書 2023年発行

3章 クリミア半島に見る国家威信の地政学 より

なぜ、ロシアは「ウクライナからクリミア半島を奪った」のか

2022年2月のロシア軍によるウクライナ侵攻において、いまもっとも注目されている半島がクリミア半島だろう。2022年の侵攻よりも前の2014年、ロシアは突如としてクリミア半島ウクライナから奪い、クリミア共和国として一方的に独立させた経緯がある。

以来、クリミア半島は何をしでかすかわからないロシアの象徴となっている。この先、クリミアでの戦争の行方によって、その帰属は予測不可能でさえある。

クリミア半島については、東にアゾフ海があり、南と西には黒海が広がっている。北ではウクライナと地つづきになっている。けっして大きな半島ではなく、日本の九州よりも小さい。

ロシアがその小さなクリミア半島ウクライナから巧妙に奪ったのは、クリミア半島地政学的に大きな意味があったからだろう。クリミア半島は、黒海を制する拠点になるのみならず、ウクライナジョージアに睨(にら)みを利(き)かせる拠点となるからだと考えられる。その起点になるのが、クリミア半島セヴァストポリである。

多くの半島では山が海に迫り、良港に恵まれる。クリミア半島の北の多くは平地であるが、南にはクリム山地があり、クリム山地の麓(ふもと)にあるのがセヴァストポリ港である。

この港も良港であり、ロシアはクリミア半島ウクライナから奪ったのち、ロシア黒海艦隊の完全な根拠地とした。

それまでロシアは、黒海の東岸にあるノヴォロシースクを黒海艦隊の根拠地とし、セヴァストポリ軍港も使用できた。ただ、セヴァストポリ軍港の使用については、ウクライナとのあいだで揉(も)めており、ロシアはセヴァストポリ軍港を我が物にしたかった。

セヴァストポリは、黒海の「へそ」のような存在である。黒海の中央よりやや北に位置し、黒海を制する拠点として機能し、黒海沿岸諸国に睨みを利かせられる。ロシアを除く黒海沿岸諸国には、ウクライナルーマニアブルガリア、トルコ、ジョージアなどがある。セヴァストポリは、これらの国に対する「押さえ」にもなるのだ。

帝政ロシア崩壊のきっかけ」となったクリミア半島

19世紀半ば、クリミア半島は一大激戦地となる。イギリス、フランスの艦隊が黒海に進出し、クリミア半島に上陸したのち、セヴァストポリ要塞の攻撃にかかったからだ。これがクリミア戦争である。

クリミア戦争は、もともとロシアとオスマン帝国の戦争であった。ロシアは、オスマン帝国相手に勝つことで新たな領土拡大を狙っていた。そのロシアの拡大を嫌ったのが、イギリスとフランスである。イギリスとフランスはトルコに味方し、ロシアに宣戦を布告、セヴァストポリ要塞を攻撃目標とした。

英仏がセヴァストポリ要塞攻略に全力をあげたのは、ロシアの南下をもっとも効率的に遮断し、ロシアをぐらつあせたかったからだろう。セヴァストポリを根拠地にロシアが黒海を自由にするなら、オスマン帝国の領土はロシアによってさらに切り取られるだろう。それはロシアの南下を意味し、イギリス、フランスはロシアの野心をクリミア半島で打ち砕かねばならないと判断したのだ。

ロシアは、セヴァストポリ要塞を強固な要塞とし、難攻不落を誇っていた。イギリス、フランスは、ロシアの自信の根源を潰したかった。

セヴァストポリ要塞の戦いは1年もの包囲戦となったのち、要塞は陥落する。ロシアはセヴァストポリ要塞に自信を持ちすぎていたのか、有効な援護ができなかった。戦後のパリ条約では、セヴァストポリからいっさいの軍事施設を撤去させられている。

セヴァストポリの陥落は、ロシアにとって大きな挫折であり、ロシアは自国の後進性を悟る。これがアレクサンドル2世による改革の起点にもなる一方、ロシアの知識層は自国の後進性の原因をロシアの皇帝の頑迷(がんめい)に見た。

そこから先、ロシアには無政府主義や革命思想が跋扈(ばっこ)し、20世紀には革命によってロシアの帝政は消滅している。クリミア半島でロシアの住民が自信を打ち砕かれ、新たな時代を模索した結果である。

「民族混交の地」クリミア半島の行方とは

クリミア半島の帰趨(きすう)が流動的なのは、クリミア半島が他民族混交の地になっているからでもあるだろう。半島の多くは、他民族が混交する地になりがちだ。大陸棚から次からつぎへと人が流入するからで、クリミア半島もそうなっている。

現在、クリミア半島に住んでいるのは、ロシア系、ウクライナ系、クリミア・タタール系(トルコ系民族)らである。かつてはクリミア・タタール人がもっとも多かったが、いまはロシア系が全体の半数を超え、最大の勢力になっている。ウクライナ系は全体の2~3割、クリミア・タタール系は全体の1割程度だ。

半島ではしばしば民族対立が起こり、それはクリミア半島にもある。現在のところ、クリミア半島は、バルカン半島のように民族ごとに細かく割れてはいないとはいえ、民族対立がクリミア半島を流動的にしている。

2014年のロシアによるクリミア奪取は、ロシア系住人の支持のもとに行われている。ロシアのクリミア半島奪取は、サイバー攻撃を使っての計画的な奇襲だったから成功したのだが、ふつうならウクライナ系住人が黙っていなかっただろう。ウクライナ系住人には、だまし討ちされたような鬱屈(うっくつ)があるから、クリミア半島はより分裂に向かうかもしれない。

ロシアが2014年の奪取以降に狙っているのは、クリミア半島の「ロシア化」だろう。クリミア半島の住人にはロシア系を増やし、圧倒的多数にすれば、クリミア半島のロシア帰属は不動になるだろう。ロシアには、それを疑われかねない歴史がある。ソ連時代、モスクワの政府はクリミア・タタール人クリミア半島から追放したことがあったからだ。

第2次世界大戦下、クリミア半島は、いったんはドイツ軍に占領されている。このとき、スターリンは、クリミア・タタール人たちがドイツに協力したのではないかと疑い、20万~30万人ものクリミア・タタール人中央アジア方面へと追放している。こうした少数民族の追放はコーカサスでも起きており、モスクワの政府は少数民族の排除に動くことがある。

現在、クリミア・タタール人は帰還をゆるされたものの、数を減らしてしまっている。
ただ、彼らとてクリミア半島の「ロシア化」は認められないし、それはウクライナ系も同じだろう。クリミア半島は、ロシアに帰属しようと、ウクライナに帰属しようと、帰属をめぐって紛糾(ふんきゅう)する半島になっているのだ。