じじぃの「歴史・思想_675_半島の地政学・バルカン半島」

How Did the Balkan Wars Start and End?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=V-RIpt7Tknc

Austria-Hungary Punts the Balkan Issue


World War I Centennial: Austria-Hungary Punts the Balkan Issue

https://www.pinterest.jp/pin/207236020332398526/

「半島」の地政学――クリミア半島朝鮮半島バルカン半島…なぜ世界の火薬庫なのか?

内藤博文(著)
【目次】
序章 半島はなぜ、いつも衝突の舞台となるのか?

1章 バルカン半島に見る大国衰亡の地政学

2章 朝鮮半島に見る内部分裂の地政学
3章 クリミア半島に見る国家威信の地政学
4章 国際社会を揺らす火薬庫と化した4つの半島
5章 世界を激震させる起爆点となった4つの半島
6章 見えない火種がくすぶる4つの半島

                  • -

『「半島」の地政学

内藤博文/著 KAWADE夢新書 2023年発行

1章 バルカン半島に見る大国衰亡の地政学 より

ユーゴスラビア崩壊が証明した、バルカン半島の混沌

バルカン半島は、19世紀以降、紛争の絶え間ない半島になってしまっている。現在もセルビアコソボを狙いつづけ、コソボには国連軍が常駐している。
バルカン半島は東ヨーロッパの一部を形成する、広大な半島である。東では黒海エーゲ海に面し、西ではアドリア海イオニア海に面している。
バルカン半島には現在、ギリシャ北マケドニアアルバニアボスニアヘルツェゴビナセルビアモンテネグロコソボクロアチアスロベニアブルガリアルーマニア、トルコなどがある。ハンガリーモルドバまでも含めるなら、十数の国がある。これだけ多くの国がバルカン半島にあれば、それぞれが対立してもおかしくない。

バルカン半島は、多くの半島がそうであるように「統治不能」である。その特徴は、かつて存在した「ユーゴスラビア」の解体が象徴している。ユーゴスラビアは、20世紀前半に誕生し、21世紀初頭には雲散霧消(うんさんむしょう)してしまった。ユーゴスラビアとは「南スラブ人の国」という意味であり、南スラブ、つまりバルカン半島のスラブ人たちを統合しようという国家であった。

ユーゴスラビアのルーツは、1918年に誕生した。「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」である。潜在的に対立するセルビア人とクロアチア人が、共同して同じ国をつくろうとしたのだ。当時、スラブ人は一体であるという民族主義だあり、その高揚感と夢が、ひとつの実験国家「ユーゴスラビア」となったようだ。

ユーゴスラビアは、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教を有する多様性のある国家とされてきた。6つの共和国とは、スロベニアクロアチアボスニアヘルツェゴビナセルビアモンテネグロマケドニアだ。5つの民族とは、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人であり、ほかに少数民族も少なくない。4つの言語とは、スロベニア語、クロアチア語セルビア語、マケドニア語。3つの宗教とは、カトリック東方正教イスラムである。

ユーゴスラビアはその多様性の共存を目指したのだが、多様ゆえに、多難な国家であり、1990年代から解体がはじまる。スロベニアクロアチアボスニアヘルツェゴビナセルビアモンテネグロ北マケドニアの6つの地に分かれ、新たにコソボも独立している。

結局のところ、ユーゴスラビアがもともと目指したスラブ民族主義は、統合理念にはならなかった。スラブという概念ではひとつの集合体とはなりえず、細分化され、セルビア民族主義クロアチア民族主義などに変わってしまった。

ユーゴスラビアは途中から社会主義国い変身して、社会主義の理念のもと統合を目指した。平等をうたう社会主義では、民族というものは「ない」という建前をとる。

社会主義は民族を超えた統一理念であるとして、ユーゴスラビアユーゴスラビア共産党指導者のチトーによる独裁社会主義国家となる。しかし、チトーが没すると何の強制力もなくなる。社会主義は、異なる民族をまとめる理想にはならなかった。ユーゴスラビアでは、それぞれの民族が対立しながら、空中分解してしまったのである。

大国を巻き込み、大国を崩壊させてきたバルカン半島

バルカン半島の広大な土地はひとつの磁場となって、大国を引き寄せやすい。バルカン半島は大国を引き寄せた末に、崩壊させもする。

19世紀以降、衰退したオスマン帝国に代わって、新たにバルカン半島の勢力争いに参入したのが、ハプスブルク家オーストリアとロマノフ家のロシアである。ともに、混乱のはじまったバルカン半島での勢力拡大を狙っていた。

ロシアもオーストリアも、オスマン帝国の去ったバルカン半島が「統治不能」の地に戻っていることにどれだけ気づいていたか。オスマン帝国に何度も勝利してきた経験から、オスマン帝国がなしえた以上のことができるとでも過信していたのかもしれない。
    ・
1914年、オーストリアに併合されていたボスニアの州都サラエボオーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナンド大公夫妻がセルビア系青年に暗殺される事件が起きる。

この事件をきっかけに、第1次世界大戦がはじまる。バルカン半島での対立と緊張は、バルカン半島には直接関係のないイギリス、フランス、ドイツをも巻き込む大戦争になってしまった。さらには、アメリカ、日本までもが参戦し、バルカン半島は世界の崩壊、改編の起爆剤となっていた。

第1次世界大戦下、戦争に行き詰まったロシアでは共産革命が共産革命が発生し、ロマノフ王朝は消滅する。皇帝ニコライ2世一家は、処刑される。オーストリアは敗戦国となり、皇帝カール1世はスイスに亡命し、ハプスブルク家の栄光は消え去った。

バルカン半島に直接の利害関係のなかったドイツも敗北、革命騒動のなか、皇帝ヴィルヘルム2世はオランドに亡命し、帝国ドイツの時代は終わる。イギリス、フランスも戦争で疲弊し、バルカン半島の緊張に巻き込まれた大国が次つぎと崩壊、あるいはその力を失っていったのだ。

「統治不能の要塞」バルカン半島への安易な介入は、大国自身の首を絞める結果になったのだ。