Why Was Italy so Fragmented in the Middle Ages? - Medieval DOCUMENTARY
イタリア
イタリア旅行記(ローマ)
2009年5月末、春のイタリアを旅しました。
今回のツアーでは、まずイタリアの首都ローマに向かいます。そして、ローからフィレンツェ、ピサ、ヴェネチア、ヴェローナ、ミラノと約1週間かけてイタリア北部を周遊します。
http://tabisuru-c.com/travel/italy_200905/20090524-1r.htm
「半島」の地政学――クリミア半島、朝鮮半島、バルカン半島…なぜ世界の火薬庫なのか?
内藤博文(著)
【目次】
序章 半島はなぜ、いつも衝突の舞台となるのか?
1章 バルカン半島に見る大国衰亡の地政学
2章 朝鮮半島に見る内部分裂の地政学
3章 クリミア半島に見る国家威信の地政学
4章 国際社会を揺らす火薬庫と化した4つの半島
5章 世界を激震させる起爆点となった4つの半島
6章 見えない火種がくすぶる4つの半島
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5章 世界を激震させる起爆点となった4つの半島 より
ローマが「カルタゴ」を滅ぼさねばならなかった理由とは イタリア半島②
地中海の覇者になったとき、ローマは、はじめて自らのイタリア半島の地政学的に見た立場の優位さを知ったと思われる。
それが、ポエニ戦争の最終局面にあってのカルタゴの完全な滅亡となる。紀元前3世紀後半、第2次ポエニ戦争にローマが勝利したとき、ローマはカルタゴに戦争を禁じるのを条件に、カルタゴを存続させていた。けれども、紀元前2世紀半ばには、カルタゴの完全滅亡を望むようになったのだ。
これは、カルタゴの地政学的地位が、あまりに高く、危険ですらあったからだ。ローマが地中海の覇者になったとき、イタリア半島とシチリア島が地中海を東西に分ける要(かなめ)であると知る。とくにシチリア島とカルタゴのあいだにあるシチリア海峡は、地中海の東西を結ぶチョークポイントになる。シチリア島、シチリア海峡は、海洋国家と化したローマの繁栄にとって、じつに重要なパーツだったのだ。
ローマがこのことを悟ったとき、カルタゴの地政学的な優位さが、イタリア半島の地政学的な地位の高さを脅(おびや)かすことを知った。カルタゴは、シチリア海峡を挟んでシチリア島の対岸にある。カルタゴもまた、シチリア海峡というチョークポイントを押さえうる存在なのである。
カルタゴの存続は、ローマの権益を侵害しかねない。そのために、ローマは強引にカルタゴに戦争を仕掛け、カルタゴを廃墟とし、2度と復興できないようにした。ローマはカルタゴを封印したことで、地中海の覇者の座を確保したとはいえないだろうか。
なぜ、中世に「大国の草刈り場」となったのか? イタリア半島④
先のローマ教皇とドイツの神聖ローマ帝国(962~1806年に西ヨーロッパに存在したドイツを中心にした連邦国家)の結託は、じつはイタリア半島にとっては、「大国の引きこみ」であった。半島では劣勢となった者が大陸の大国を引きこみ、勢力の逆転をしばしば試みる。イタリア半島もそうで、ローマ教皇はその先駆けであった。
ローマ教皇がイタリア半島で窮地に立たされたとき、ドイツ王を神聖ローマ皇帝としてイタリア半島に呼びこんだ。教皇は、ドイツ人を用心棒か何かにするつもりだった。
ただ、用心棒はかならずしも善意の人ではない。勢力争いに加わるうちに、すべてを我が物にしたいと思うようになる。ドイツの神聖ローマ帝国もそうで、歴代皇帝たちはイタリア支配に貪欲になった。
ローマ教皇にすればアテが外れたわけだが、窮(きゅう)したローマ教皇がとった策は、ドイツに対抗する勢力の呼びこみである。11世紀末、教皇ウルバヌス2世はフランス王家に接近し、国王の弟シャルル=ダンジューをシチリア王に任命し、イタリア半島でドイツ勢力との対決を求めた。
シャルル=ダンジューは教皇の期待どおりドイツ勢力と戦い、イタリア半島からドイツ勢力を追い出すが、今度はフランス勢力がイタリア半島に根づきはじめた。シャルル=ダンジューは、シチリアを勢力圏としていた。
このフランス支配を嫌ったのが、シチリアの住人である。彼らはイベリア半島のアラゴン王家を呼びこみ、シチリア島からフランス人たちを追い出す。今度はアラゴン王国がイタリア半島に食指(しょくし)を伸ばしはじめ、フランスから南イタリアのナポリ王の座を奪い取っている。
イタリア半島でのルネサンスは、そうした時代を経て盛り上がっていく。フィレンツェ、ミラノ、ナポリ、ヴェネチア、ジュノヴァなどの都市国家は大いに栄えたものの、彼らがひとつにまとまることはなかった。彼らは、内部で勢力争いを繰り広げていた。
そこにまた、外部の勢力の呼びこみがはじまる。15世紀末、イタリア半島で孤立したミラノがフランス軍を呼びこんだのだ。これが、イタリア・ルネサンスの「終わりのはじまり」となる。
イングランドとの100年戦争を勝ち抜いてきたフランス軍は、イタリア半島で無敵であった。と同時に、分裂状態のイタリア半島があまりに脆(もろ)く、しかもイタリアには多くの富があることもわかった。以後、フランスはイタリア半島への介入を好むようになり、フランスに対抗するように、ドイツ、スペイン勢力もイタリア半島に狙いをつけはじめた。ヴェネチアを目の敵(かたき)にしていた教皇ユリウス2世に至ってはヴェネチアに勝つために積極的に外部勢力を呼びこんだ。
こうしてイタリア半島は、いつしかフランスやドイツ、スペインという大国の草刈り場となり、彼らの戦場になってしまった。16世紀後半にほぼ決着がついたとき、イタリアの都市国家は弱体化し、スペインの影が濃くなっていた。その後、スペインに代わってオーストリアがイタリア半島に力を持つようになるが、19世紀までイタリア半島はバラバラなまま、大国に半ば従属する時代がつづいた。
イタリア半島の統一がなされ、「イタリア」という国家が生まれるのは19世紀後半のことである。当時、民族主義が高まり、ヨーロッパ各地で国民国家が成立しようとした時代に合わせて、住人もイタリアの統一をようやく求めたのだ。
ただ、イタリアという国はできても、イタリア半島内はバラバラだ。現在でも南北の経済格差はひどく、ローマも、ミラノも、トリノも、ヴェネチアも、それぞれが別の道を歩もうとしているかのようだ。国際ハブ空港がローマとミラノにそれぞれあるのも、イタリア半島がバラバラだからだろう。