インド洋 「真珠の首飾り」
中国の戦略「真珠の首飾り」とはどういうものか?
2014/9/26 Yahoo!ニュース
●インド洋を視野にシーレーン確保
「真珠の首飾り」とは中国が確保・構築しようとしているシーレーン戦略を指します。
米軍の長期戦略考案を担う米国国防省ネットアセスメント局が、部内レポートで使った言葉として、2000年代半ば頃に知られるようになりました。
アメリカが中国のシーレーン戦略を分析・命名するのに作った言葉で、中国側が自国の戦略を説明する際に、公式にこの言葉を使用したことはありません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1d7a1d5a327c7a84b21aa60a6964c8dba2afbe55
「半島」の地政学――クリミア半島、朝鮮半島、バルカン半島…なぜ世界の火薬庫なのか?
内藤博文(著)
【目次】
序章 半島はなぜ、いつも衝突の舞台となるのか?
1章 バルカン半島に見る大国衰亡の地政学
2章 朝鮮半島に見る内部分裂の地政学
3章 クリミア半島に見る国家威信の地政学
4章 国際社会を揺らす火薬庫と化した4つの半島
5章 世界を激震させる起爆点となった4つの半島
6章 見えない火種がくすぶる4つの半島
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4章 国際社会を揺らす火薬庫と化した4つの半島 より
なぜ、20世紀後半から「地政学な地位を高めた」のか? インド半島③
インド半島は、近世になって日増しに地政学的な地位を高めた半島でもある。インド洋に突き出し、西にベンガル湾、東にアラビア海をつくり出しているからだ。
古来、インド半島はインド洋交易の要衝(ようしょう)であった。インド洋は、太平洋や大西洋よりもずっと早くから交易の海となっていて、インド洋に突き出したインド半島は公益の要衝となった。7世紀以降、アラビア半島でイスラム勢力が勃興(ぼっこう)し、東アジア方向まで渡海をはじめたとき、インド半島はより重要となった。
15世紀後半以降、西洋諸国がインド洋から東南アジア、東アジアに渡ろうとするときもインド半島は大きな拠点となった。ポルトガルは、インド半島のゴアとムンバイに拠点を築いている。インド洋とインド半島がより重要になるのは、20世紀後半、石油の時代を迎えてからだ。中東から産出される石油は、インド洋からマラッカ海峡を抜けて、東南アジア、東アジアに運ばれる。
東アジア諸国が経済成長を遂げるにつれて、より多くの石油を必要とするようになったから、インド洋の安定はつねに求められるようになった。インド洋の存在が高まれば高まるほど、インド洋の安定に欠かせないインド半島は注視されるようになっているのだ。
現在、インド洋の勢力争いに加わろうとしているのは、中国である。中国とインドは潜在的なライバルである。しかも、中東の石油に依存している中国は、インド洋を自由にもしたい。
そこから先、中国はインド洋におけるインド半島包囲網を築こうとしている。中国はインド洋の島国スリランカに接近し、ハンバントタ港を建設したのみならず、99年間にわたる港の運営権を得ている。と同時に、中国はパキスタンを支援し、アラビア海に面したグワーダルに巨大な港を建設している。
このように、中国はインド半島の東西に自国のための港を建設することで、インドを東西から包囲しようとしている。それは、インド洋での新たな緊張をもたらすことにもなるのだ。
アメリカに勝ったベトナムも覇者になれなかった理由 インドシナ半島③
20世紀、フランス、アメリカ、中国という大国につづけざまに煮え湯を呑まされたベトナムだが、だからといってインドシナ半島の大国になれるわけではない。ベトナムでさえも、インドシナ半島では失敗しているのだ。
ベトナムは、カンボジアで泥沼を見ている。アメリカを撃退したベトナムは、その後、カンボジアに侵攻する。カンボジアが内戦、内紛つづきであったから、その侵攻は容易であるかに見えた。
カンボジアでは1970年代に政変がつづいた。右派のロン・ノル将軍によるクーデターでシハヌークの王政は転覆、クメールの王政は転覆、クメール共和国が成立したものの、内戦となる。
内戦下、ポル・ポト率いる反政府勢力が拡大し、クメール共和国を葬(ほうむ)り、民主カンプチアが誕生する。その民主カンプチアは国内をテロでしか支配できなかったから、ベトナムは混乱のカンボジアを手中にしようとした。
そもそも、インドシナ半島のカンボジアやラオスには近隣国に対抗するほどの力はない。近隣国が国境線を越えて、好き勝手をしても、強い対抗措置をとることができない。
その典型が、「ホーチミン・ルート」をめぐる攻防だろう。ベトナム戦争下、北ベトナムが南ベトナム制圧のために使ったのが、ホーチミン・ルートである。国境線を越えて、ラオス、カンボジア側の南北に長い山地を縦断するのが、ホーチミン・ルートだ。
北ベトナムは、ホーチミン・ルートを使って武器や食糧を南ベトナムで戦っているゲリラたちに運んでいた。それは、中立国であるカンボジアやラオスの主権を無視しての話なのだが、カンボジアやラオスは何もできなかった。
このホーチミン・ルートが威力を発揮したため、アメリカはホーチミン・ルート潰しに躍起になる。それが、アメリカ軍のカンボジアやラオスへの攻撃となっていた。ここでも、カンボジア、ラオスは泣き寝入りするしかなかった。
統一ベトナムは、このホーチミン・ルートでの経緯を知っていたから、カンボジアを侮(あなど)ってもいただろう。1979年、ベトナム軍はカンボジアへと進行し、ポル・ポトのクメール・ルージュを崩壊させた。ベトナム軍はカンボジア各地で勝利を重ね、クメール・ルージュによる住人の虐殺も明らかとなった。
けれども、ベトナム軍はカンボジアで10年間以上も戦いながら、何も得られなかった。おもな街を占領はできても、カンボジア全体の完全征服・統治まではできなかったのだ。
国家予算のおよそ4割をカンボジア侵攻に投入してきたにもかかわらずである。結局、ベトナム軍はカンボジアで泥沼にはまり、すごすごと撤退していったのだ。
カンボジアもまた半島の一部であり、「統治不能な要塞」であった。カンボジアには平たい地もあるとはいえ、ジャングルや湿地帯、河川などによっれ地域が分断されている。
分断された地域を統治するのも、征服するのも容易ではない。カンボジアは統治不能ゆえに、ベトナム軍に対しても征服不能な要塞となっていたのだ。