じじぃの「世界遺産・アンコール遺跡を造った人々はどこへ消えてしまったのか?封印されたミステリー」

世界遺産アンコールワット カンボジアシェムリアップ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=pybkEXqlXWM
アンコールワット修復プロジェクトの日本人の写真 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZF11HdhN58E
アンコール遺跡 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1&sa=X&oi=image_result_group&ei=TWvHUYqGG8WElQWs84CoBg&ved=0CCQQsAQ
まな旅・アンコール遺跡探訪の旅/海外旅行はエヌオーイー
まな旅・アンコール遺跡探訪の旅7日間
石澤良昭 上智大学教授(上智大学前学長)・現地動向
http://www.noe-j.co.jp/group/manatabi_angkor/
クローズアップ現代 「世界遺産 富士山は守れるか」 2013年6月24日 NHK
【キャスター】国谷裕子 【専門家・ゲスト】岡田保良(国士舘大学教授)
世界文化遺産への登録がほぼ確実となった富士山。莫大な経済効果に地元の期待が高まる一方、いま大きな課題も指摘されている。ユネスコの諮問機関イコモスは「開発に対する制御や来訪者を管理していく戦略が必要」だと指摘。すでに飽和状態ともされる登山客をどう抑えるのか、景観をどう守っていくのかなど、3年後までに具体的な対応策を提出するよう求めている。地元自治体では「入山料」の導入などを検討しているが、なかなか抜本的な解決策には、まだいたっていない。開発によって大きく様変わりした世界遺産や登録が抹消された海外の事例も含め、世界遺産“富士山”をどう保全していくのかを考える。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3369.html
いま世界は 2013年6月23日 BS朝日
【キャスター】木佐彩子小松靖矢島悠子 【コメンテーター】外岡秀俊元朝日新聞編集委員)、竹田圭吾(ジャーナリスト)、パックン(タレント)
●トップ・ストーリーズ ① 「世界遺産登録の光と影 富士山・これからの課題」
カンボジアで開催中のユネスコ世界遺産委で富士山の登録が正式決定した。日本の宝が“世界の宝”Mt.FUJIになった。
地元は歓喜の渦に包まれたが、広大な遺産をどう守っていくのか? 課題は少なくない。長年、アンコールワットの調査と、保存・修復活動を続けてきた日本人研究者へのインタビューから、“遺産”を未来へ繋ぐための課題が見えてきた。
http://www.bs-asahi.co.jp/imasekaiwa/
世界遺産ライブラリー [アンコール遺跡群2] NHK世界遺産
9世紀から約600年間続いたクメールの王朝は、アンコール・ワットをはじめとする大小700に及ぶ石造りの遺跡を残しました。しかし、20世紀後半に20年以上続いた内戦で遺跡は荒れ果ててしまい、ユネスコは1992年にアンコールを危機遺産リストに登録しました。
「シリーズ世界遺産100」では、遺跡修復のため奮闘した一人の日本人の活動を中心に、アンコール遺跡群が危機遺産を脱するまでを紹介します。アンコール遺跡の修復には、大きな難問がありました。内戦前まで遺跡の修復をしていた保存官たちがポルポト派に処刑されたため、地元の技術者がいなくなってしまったのです。この遺跡の修復には、石を扱う高度な技術が不可欠なのです。そこで、人材を育成するため現地へ出向いたのが、小杉さんという日本の石職人です。素人の若者相手に小杉さんは自分の技を伝えようと厳しい指導を続けました。こうした外国からの支援と、カンボジアの青年達の努力により修復は徐々に成果を挙げ、ユネスコは2004年、アンコールを危機遺産リストから除外しました。しかし、現地の人々が主役となったアンコ−ル遺跡群を守る活動は始まったばかりで、まだ多くの困難な課題が残されています。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards152.html
『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』 平川陽一/著 PHP研究所 2010年発行
アンコール遺跡を造った人々はどこへ消えてしまったのか? 【遺跡名】アンコール (一部抜粋しています)
1860年、フランスの博物学者アンリ・ムオが、動植物の調査のために熱帯雨林の中をさまよっているとき、アンコール・ワットを発見した。このとき彼は目の前に現れた荘厳な光景を信じられず、何度も目をこすったという。
いったい、なぜジャングルの真ん中に、「神の世界」が存在しているのだろうか。
カンボジアの歴史は紀元前、この地に建設された扶南(ふなん)国に始まる。しかし、扶南国はクメールによって滅ぼされ、それ以後は、数世紀にわたって混乱が続くが、9世紀になってクメールはようやく、アンコールの地に王城を築く。
往時のクメールはインドシナ半島すべてをテ中に収める大国で、その王城となったアンコールは、最盛期には100平方キロメートルにもおよぶ圧倒的な規模を誇った。王都の人口は50万人を数えたという。
その栄華の跡であるアンコールには、1000近い寺院遺跡などが残され、現在、主要な遺跡だけでも30ヵ所近くを数えている。この膨大な遺跡群の中でも、圧倒的スケール、精緻さ、そして優美な構造美を誇るのがアンコール・ワットである。
クメールの寺院はすべて墳墓寺院を兼ねていて、王や王族の墳墓として建てられたものが多い。死後、王は神と一体化するというクメールの進行からいえば、墳墓と寺院が一体化するのも、また当然と考えられていたのである。アンコール・ワットも例外ではなく、12世紀、スールヤヴァルマン2世が自らの墳墓として、また、ヒンドゥのヴィシュヌ神に捧げる建物として創建された。
クメールでは、人は木造、神は石造りの館に住むものと考えられて、そのため、王は生前は木造の宮殿に住み、死後、ヒンドゥの神々の像に王の首が据えられ、初めて石造りの寺院に移り住んだのである。
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中世の東南アジアではさまざまな民族が澎湃(ほうはい)として現れ、興亡を繰り返していた。アンコールもその歴史の波から逃れることはできず、1177年、ベトナムのチャンバ軍の侵攻を受け、大きな被害を受けた。しかし、10年ほど後の1188年にはクメールの覇者と讃えられるジャヤヴァルマン7世の即位により、王城の復興も勢いよく進められた。
ジャヤヴァルマン7世の建造したアンコール・トムは、大きな街という名が示すとおり、一辺が3キロメートル、周囲を幅113メートルの濠で囲むという荘大さを誇り、バイヨン寺院、ゾウのテラスをもつ王宮、父王に捧げられたブリヤ・カーン、皇太后のためのタ・プロームなど、いまも見る者を圧倒的な感動で誘う遺構が点在している。
場内に入るには濠にかかった橋を渡るか、その橋の欄干は、7つの頭をもった大蛇ナーガの胴体で綱引きする巨像が立ち並んだものである。
カンボジアのある詩人は、アンコール・トムを「王は貴石で造られた宮殿を要するこの都市と結婚して、宇宙を創生した」と表現している。まさに、何もかもが宇宙を思わせるスケールである。
アンコール・ワットとアンコール・トムの最大の違いは宗教観である。アンコール・ワットがヒンドゥの神に捧げられた寺院であるのに対し、アンコール・トムは大乗仏教の影響が色濃く、5つの城門の上に立ち、見る者に忘れられない印象を与える巨大な首像もやさしい笑みをたたえた観世音菩薩像である。観世音菩薩像は王の化身であり、クメールの人々を救済する救いの女神でもあったのである。
アンコール・ワットが肉の薄い浮き彫りであるのに対して、アンコール・トムは厚みがあり、躍動感の感じられる立体的な彫像が主体である。回廊の彫刻も、神話ではなく、戦闘シーンや家族ぐるみで兵士を支える光景など、当時の庶民の生活に密着したものが増えている。王の治世が、より密着したものになってきたことを示しているのだろうか。
しかし、アンコール・トムの建造を最後に、アンコールでは、巨大な建造物は造られなくなってしまう。もはやクメールにはそれだけの力が残っていなかったのだ。
ジャヤヴァルマン7世がアンコール・トムの建造に熱中するあまり、疲れ果てた民衆はついに、王の命に従おうとしなくなったという説。あるいは、このころ、仏教徒とヒンドゥ教徒の間に激しい紛争があり、その機をついて、タイのスコタイ民族がアンコール・トムを急襲し、クメールを森林の中に蹴散らしてしまったという説などがある。
いずれにしろ、アンコールに栄えたクメールの文化は、ある日突然といっていいほど、唐突にピリオドが打たれた。これほどの富と力を注いで造り上げた地上の宇宙、地上の楽園を、クメールの民は後を見ずに捨て去ると、歴史のヒダの中に永遠に姿を消してしまったのである。

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どうでもいい、じじぃの日記。
6月23日、カンボジアで開催中のユネスコ世界遺産委で富士山の世界遺産登録が正式に決まった。
その夜、BS朝日 『いま世界は』を観ていたら、なぜか、「世界遺産 アンコール遺跡」の特集をやっていた。
熱帯雨林の中にひっそりと埋もれていたアンコール遺跡の建物を修復し、危機遺産から現在のような姿の世界遺産にしたのは日本人なのだそうだ。
アンコール遺跡がユネスコ世界遺産に登録された当時は、カンボジアは内戦状態で、アンコール遺跡保存に関係していたカンボジア人50人が5人しか残っていなかった。
そこで、カンボジアから、「助けてくれ!」という手紙が、日本に寄せられたのだそうだ。現在はアメリカ、中国なども修復作業に当たっているそうだ。
平川陽一著 『愛蔵版 世界遺産・封印されたミステリー』という本に、「アンコール遺跡を造った人々はどこへ消えてしまったのか?」というのが載っている。
「アンコールに栄えたクメールの文化は、ある日突然といっていいほど、唐突にピリオドが打たれた。これほどの富と力を注いで造り上げた地上の宇宙、地上の楽園を、クメールの民は後を見ずに捨て去ると、歴史のヒダの中に永遠に姿を消してしまったのである」
一昔前、エジプトのピラミッドは奴隷が造ったといわれていた。最近では農閑期の公共事業だったのではないかと言われている。
意外とアンコール遺跡の建造物も、王様がお金(お米?)を払わなくなったからだったりして。
カンボジアのアンコール遺跡は1992年、ユネスコ世界遺産登録リストと同時に「危機にさらされている遺跡」(危機遺産)としても登録された。