じじぃの「人の死にざま_1180_古河・市兵衛」

古河市兵衛 - あのひと検索 SPYSEE
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足尾銅山 動画 YouTube
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古河電気工業株式会社 初代 古河市兵衛:目次−先駆者たちの大地
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古河市兵衛 ウィキペディアWikipedia)より
古河市兵衛は日本の実業家で、古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳之助、幸助。陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。
【経歴】
生家の木村家は京都岡崎で代々庄屋を務める家柄であったが、父の代には没落しており、巳之助は幼少の頃から豆腐を売り歩く貧乏暮らしで苦労を重ねた。継母が病に倒れた際、盛岡南部藩で高利貸しを営んでいた母方の叔父が見舞いに訪れ、その際、その親族のもとで修行をすることを希望し、嘉永2年(1849年)、盛岡に向かう。
市兵衛は小野組時代からの縁があった元相馬藩主を名義人として立て、市兵衛が下請けとして鉱山経営を行う条件で政府から草倉鉱山の払い下げを受けることに成功した。明治8年(1875年)のことであった。草倉鉱山の経営は順調で、明治10年(1877年)には市兵衛は鉱山業に専念する決意を固め、いよいよ足尾銅山を買収することになる(現在の古河機械金属)。
同年、古河市兵衛は草倉鉱山と同じく相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収した。相馬家では家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、その後渋沢栄一も共同出費者として名を連ねた。
鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手。明治17年1884年)には、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展していくことになる。
古河グループ ウィキペディアWikipedia)より
古河グループは、戦前の古河財閥の流れを汲む企業グループである。中核企業は、古河機械金属古河電気工業富士電機富士通の4社。創始者古河市兵衛で、源流企業は古河機械金属である。
【概要】
古河財閥創始者古河市兵衛が、明治8年(1875年)に草倉銅山の払い下げを受けて鉱山経営を始めたこと(現在の古河機械金属が源流企業である)から、企業グループとして形成される。現在の古河グループは古河三水会と呼ばれ、戦前と同様に電気・金属・化学工業などを中心とした企業で形成されている。特にグループの中核企業として、古河機械金属古河電気工業富士電機富士通の4社が挙げられる。
本流会社および密接な提携関係を続けているものは、古河三水会理事会社である古河機械金属古河電気工業富士電機富士通横浜ゴム、ADEKA、日本軽金属日本ゼオン朝日生命保険みずほコーポレート銀行の10社と、会員会社51社、準会員会社1社の計62社である。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
古河市兵衛(ふるかわ いちべえ) (1832 - 1903) 71歳で死亡。 (一部抜粋しています)
京都の貧しい豆腐屋の子として生まれ、継母に虐待されて育った市兵衛は、18で高利貸の手代となり、生糸の輸出商となり、明治9年には元大名相馬家の家令志賀直道と共同で、足尾銅山の経営にのり出す。この志賀直道が志賀直哉の祖父である。
やがて市兵衛は日本の銅山王と呼ばれる存在になったが、同時に明治20年代なかばから、足尾を源とする渡良瀬川鉱毒問題で悩まされるようになる。もっとも彼は自分の事業は国益と信じ、かつ当時の金として1千万円以上の巨費を投じて鉱毒の防除工事につとめたが、惨害はやまず、田中正造をはじめとする世論の嵐の中に立った。
市兵衛は明治3チョンマゲの1人といわれ、彼がチョンマゲを切ったのは、やっと明治33年、68になってからであった。これだけ旧弊で、ともかくも近代技術を要する鉱山経営によく成功したものだ。
彼はこのように強情な男であったが――明治34年11月30日早朝、蒔絵(まきえ)の櫛(くし)をきちんと髪にさしたままの女の死体が神田川に浮かんだ。それは市兵衛の妻タメであった。市兵衛の道楽に悩んでの自殺という説もあるが、やはり鉱毒問題を気にやんでの自殺であったと思われる。
田中正造渡良瀬川鉱毒の惨状についての天皇直訴事件の起こったのは、それから10日後の12月10日のことである。
そして市兵衛も胃ガンにかかった。――たたしこれは鉱毒問題を気に病んでのことではなかったろう。彼は女道楽は別として、ほかになんの趣味も教養もなく、ただ晩年まで鰻丼(うなどん)でも2人前食わねければ物足りないほど大食で、それもろくに噛まずにむさぼり食うといった男であったから、そのほうから来た胃ガンであったろう。
大磯や熱海で療養したが衰弱は次第にすすみ、明治36年4月5日午前3時に死んだ。
市兵衛は日露戦争の前年に死んだわけだが、日露戦争は軍需資源として銅を絶対必要とし、日本の銅生産量の20パーセントを占めていた足尾の存在を絶対必要とした。

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