じじぃの「歴史・思想_701_NATOを知るために・ボスニア紛争」

【ゆっくり解説】戦後最悪の悲惨な紛争|ユーゴスラビア内戦

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IYZ7ZDGE268


ユーゴスラビア

NHK for School
東側陣営のユーゴスラビア多民族国家でした。
しかし冷戦終結後、激しい内戦と共に分離解体が進みました。
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005402949_00000

エリア・スタディーNATO北大西洋条約機構)を知るための71章

【目次】
はじめに
第1部 NATOとはどのような組織か
第2部 冷戦期の展開
第3部 冷戦の終焉

第4部 冷戦後の危機管理

第5部 冷戦後の拡大をめぐって
第6部 ウクライナ危機とNATO主要国の対応
第7部 集団防衛への回帰――今後のNATO
第8部 日本とNATO

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NATO北大西洋条約機構)を知るための71章』

広瀬佳一/編著 明石書店 2023年発行

第4部 冷戦後の危機管理 より

第21章 危機管理のはじまりとボスニア紛争――NATOによる介入のモデルケース 【執筆者】広瀬佳一(防衛大学校人文社会科学教授)

冷戦終焉直後の戦略概念1991では、NATOは集団防衛のみならず、民族対立や領土紛争などによる地域的不安定性にも対処することがうたわれていた。
後に「危機管理」として正式任務となるNATOの機能は、まずボスニア紛争において試され、やがて定着していくこととなった。

ボスニア紛争勃発は、ユーゴスラビア連邦が解体する過程で、スロベニアクロアチアが1991年に相次ぐ独立宣言を出したことに端を発している。ボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)では1992年3月に独立をめぐる国民投票が実施され、その結果翌4月に独立宣言が出されると、人口の43.5%を占めるムスリム系勢力と、31.2%のセルビア系勢力との対立を軸に、17.4%のクロアチア系が絡むという三つ巴の構図のもとで、武力紛争がはじまった。
この紛争は1995年夏まで4年近く続き、その間に死者約10万人、難民・避難民30万人以上を出すなど、冷戦後のヨーロッパで最も大きな民族紛争となった。この紛争が長期化し、のちに民族浄化ということばで知られるようになるほど血なまぐさいものとなった背景には、人口比で最大勢力のムスリム系勢力に対して、旧ユーゴスラビア軍の主流であったセルビア系勢力が、軍事力では他を圧倒していたことがあった。

ボスニア紛争は、解決を目指した国際社会の主体に着目すると、2つの局面に分けることができる。第1の局面が1992年2月から1994年はじめまでで、これはEUおよび国連が中心になって調停を試みたことによって特徴づけられる。第2の局面は1994年に入って以降で、アメリカおよびNATO主導により事態の収拾が図られた時期である。

1992年4月に独立宣言を行ったボスニアは、少数派のセルビア系住民による投票ボイコットを契機に、内戦が始まった。多くの民族問題を抱える不安定なバルカン地域全体に紛争が拡大するのを恐れた国際社会は、国連安保理決議743に基づき1992年6月から国連防御軍(UNPROFOR)を派遣、8月にはEUとともにユーゴスラビア国際和平会議を開催して紛争の平和的解決に努めた。

この間、すでにみたようにNATOは1992年12月に国連安保理の権威のもとでの平和維持活動への支持を表明していた。それに基づきNATOは、国連による武器禁輸を履行するためのアドリア海海上封鎖や国連が設定した飛行禁止区域(NFZ)の監視活動などを実施した。

しかし戦闘激化にともないUNPROFORが危険にさらされると、国連は武力行使を容認する安保理決議776に基づいてNATOに対し近接航空支援(空爆)を要請するにいたり、ここに第2局面が始まった。1994年4月には国連が設定していた「安全地域」ゴラジュデを包囲していたセルビア系勢力に対して、初の空爆が行われた。これに対してセルビア系勢力は、1995年5月、UNPROFORの兵士を人質にとるという暴挙に出た。そのうえ7月には、セルビア系勢力がスレブレニツァでムスリム系住民に対する組織的な大量虐殺を行ったことが発覚した。(2004年、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所スレブレニツァの虐殺を「ジェノサイド」と認定)。これを契機に西側諸国は態度を硬化させ、8月から9月にかけて、NATOが50あまるのセルビア系勢力の目標地点に対して、航空機およびトマホーク巡航ミサイルによる大規模空爆を行った、

この結果、1995年11月アメリカのオハイオ州デイトン市郊外のライト・パターソン空軍基地アメリカと3勢力首脳の会議が開催され、ボスニアの2分割(ムスリム系・クロアチア系51%、セルビア系49%)を原則とすり包括的和平で合意がなされ(「デイトン合意」)、12月のパリで正式調印が行われた。
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ボスニア紛争における飛行禁止区域設定や空爆実施、停戦後のIFOR(NATO主導の和平履行部隊)接地は、冷戦後のNATOにとって、新しい任務の始まりを意味していた。IFORにはNATO加盟国のほか、18ヵ国の非NATO加盟国が参加。そのうちムスリム系勢力に配慮した4ヵ国以外は、すべて、「平和のためのパートナシップ(PfP)」に参加するパートナー国であった。

ボスニア紛争の結果、NATOは冷戦後の民族紛争や地域紛争の解決に不可欠な枠組みとして復権した。こうした状況から、スペインが1999年、NATO軍事機構への参加を決定した。統合軍事機構という協力な手段を有し、民族紛争のような脅威への対処に有効であると証明されたことはNATOの機能変容を促進した。

ボスニア紛争は、単に介入の最初のケースであったのみならず、後にNATOが正式任務化する「危機管理」機能のほぼすべての要素を見いだすことができる点において、NATOに2つの重要なインパクトを与えた。第1に、NATOは、危機管理に際して、武力行使を中心とする平和強調のみならず、停戦後の監視活動、治安維持、平和構築支援など、紛争解決の各局面において効果的な役割を果たした。そのうえで第2に、NATOは、国連、EUや他の国際機関、NGO、現地の自治体などとの連携を重視するようになった。

このようにボスニア紛争を契機として、NATOはポスト冷戦期のヨーロッパにおける安全保障の担い手として再浮上したのであった。