2008年紛争前夜と「同じ」=ウクライナ情勢けん制―ロシア
2021年11月23日 時事エクイティ
ロシア対外情報局(SVR)はウクライナ情勢をめぐり、米欧の「挑発的な政策」がウクライナを強気にさせているとして、2008年のジョージア(グルジア)での紛争(南オセチア紛争)直前にも「同じような状況を見た」と批判、米欧をけん制した。インタファクス通信が22日報じた。
SVRは声明を出し、ロシアとジョージアが軍事衝突した08年の紛争について、米欧があおり当時のサーカシビリ・ジョージア大統領が暴走したと主張した。また、ウクライナとの国境付近に関し、米メディアは10月末からたびたびロシア軍の集結情報を報じているが「全く誤った情報」と否定した。
https://equity.jiji.com/commentaries/2021112300002g
第3部 冷戦の終焉 より
第18章 ソ連解体と新たなNATOロシア関係――共存から対立へ 【執筆者】湯浅剛(上智大学外国語学部教授)
1980年年代末より東欧の社会主義諸国の体制移行が進むなか、これらの国々に駐留していたソ連軍は相次いで撤退し、1991年7月にはワルシャワ条約機構も終焉を迎えた。
ヨーロッパにおけるソ連の軍事プレゼンス退潮の流れのなか、NATOは東欧諸国のみならず、すでに国内の混乱が極まっていたソ連/ロシアとも協力関係を模索した。軍事・経済で疲弊し、米欧諸国からの支援が必要であった当時のロシアにとって、NATOとの協力はやむをえない選択であった。
1991年11月にはNATO加盟諸国とソ連・東欧諸国の協議体「北大西洋協力理事会(NACC)」が設置された。その第1回会合は、ソ連・ゴルバチョフ大統領の退陣が濃厚となっていた12月20日であった。1994年1月のNATO首脳会議で、ヨーロッパの非NATO諸国との安全保障協力を促進することを目指す「平和のためのパートナシップ(PfP)が提唱され、同年6月にはロシアもこれに参加した。
しかし、これに並行して中・東欧諸国で湧き上がっていたNATO本体の東方拡大論には、ロシアは当初から難色を示していた。自らを蚊帳の外に置くようなヨーロッパにおける安全保障体制の再構築が進むことをロシアは懸念した。また、当時すでに旧ソ連を構成していたバルト諸国が早期加盟に名乗りを上げていた。旧ソ連諸国へのNATO拡大は、ロシアの国家安全保障の根幹を揺るがすものと考えられていた。
米欧との協調路線を推進していたコズィレフからプリマコフに外相が交代したこと(1996年1月)は、ロシアの政策の転機となった。1997年3月のヘルシンキにおける米ロ首脳会談では、依然としてNATO拡大に対するロシアの頑なな抵抗が色濃かったが、その前後に続いたプリマコフとソラーナNATO事務総長の6回にわたる交渉を経て、両者は妥協点に達した。1997年5月に締結された「NATOロシア基本文書」がその成果である。
この文書はNATO加盟国16ヵ国とロシア(16+1)という形式で署名され、新規加盟国には戦術核を配備しないなど、新規加盟国の域内の軍備に一定の制約を課した。さらに16+1の枠組みで「NATOロシア常設合同理事会(PJC)」が設置された。これによって、ロシアはNATOとの間に国家元首や閣僚レベルで協議・連絡の場を持つこととなった。また、交渉を通じて、当面の新規加盟はポーランド、チェコ、ハンガリーに限定され、バルト諸国は除外された。なお、このときNACCも欧州大西洋パートナシップ理事会(EAPC)に再編され、危機管理や平和支援活動を含む安全保障フォーラムとして、大使・閣僚・首脳など各レベルで定期的な会合が設けられた。
1999年3月に始まったNATOによるユーゴ空爆は、一時的にNATOロシア関係を冷却させた。しかし、1年もたたずに関係は正常化する。同年10月に対ロ関係を重視するロバートソンがNATO事務総長に就任したこと、また12月にはロシアでもエリツィンからプーチンへ政権交代があったことも、関係修復の要因であったと考えられる。
国家指導者になったばかりのプーチンは、前任者であるゴルバチョフやエリツィンよりも具体的に、対等なパートナーとしてロシアがNATOに加盟することをロバートソン事務総長やアメリカのブッシュ(子)大統領に向けて提唱した。まだ40代の若きロシア大統領は、NATO拡大問題について従来の強硬姿勢とは異なるアプローチを追求した。2001年の9・11事件(アメリカにおける同時多発テロ事件)によって、ロシアと米欧諸国が「テロとの戦い」で利害が一致したことも、その後のバルト諸国へのNATO拡大(2004年3月)を許す協調的環境を醸成した。
この時期、前述のPJCは「NATOロシア理事会(NRC)」に格上げされた(2002年5月)。ロシアはNATO加盟諸国と対等な立場でこの枠組みに参加し、コンセンサス方式による意思決定に関与することとなった。ロシアにとってこの改編は、まさにNATOとの対等なパートナーになることを目指したものであった。NRCが本格的に稼働していくなかで、それまで駐ベルギー大使が兼任していたNATO代表部のロシア常駐代表は専任のポストとなり、その最初の人事として国境管理部門のKGB将校であったトツキーが充てられた(2003年5月着任)。
2000年代のロシアは、石油・天然ガスの輸出による経済成長を背景に国力が回復し、対外・安全保障政策でも旧ソ連諸国との連携を中心に自陣営の再構築に務めた。その一方で、イラク戦争(2003年)や、ジョージアやウクライナで相次いだ「革命」による親米政権の誕生などで、アメリカとの亀裂を次第に深めていった。2007年2月、ミュンヘン安全保障政策会議で語気を強めてアメリカの一極主義を批判したプーチンに、かつてアメリカとの協調を唱えていた面影はなかった。批判の矛先にNATOにも向けられ、NATO拡大は「同盟の近代化にも、またヨーロッパにおける安全保障の確保にもつながらない」と彼は指摘した。
2008年8月のジョージアへの軍事侵攻によって、NRCは約10ヵ月にわたり機能停止となり、、ロシアと米欧諸国の亀裂はさらに深まった。
この時期、トツキーに代わりNATO常駐代表となったロゴージン(2008年1月着任)は、愛国主義的な言動で知られた政治家であり、持ち前の発信力を活かして歯に衣着せぬ対西側強硬論をブリュッセルで展開した。
並行して、ロシアはいったん首相職に退いたプーチンに代わり大統領となったメドヴェージェフのもとで、独自の欧州安全保障構想を提唱した(2009年11月)。これは、NATOとお対等なパートナシップという従来の政策を超え、欧州安全保障協力機構(OSCE)など既存の複数の安産保障の枠組みを発展的に解消させ、新しいしくみを作ろうとするものだった。しかし、米欧諸国はもはやこの提案に聞く耳を持たなかった。
冷戦後のNATOとロシアとの関係は、機構の領域的拡大と、欧州安全保障のなかでのロシアの位置づけについての双方の思惑が錯綜するなかで展開した。2000年代初頭のプーチンのNATOに向けた柔軟姿勢は、ウクライナ侵攻が泥沼化する2020年代の視点からみると謎な点も多い。彼は結局のところ、機会主義的に政策決定をしていたということなのかもしれない。他方で、当時のプーチンの姿勢は、間欠泉的に起こるソ連/ロシアの対NATO協調路線の一環として現れたものでもあった。