じじぃの「歴史・思想_704_NATOを知るために・ウクライナ」

【CGで見る戦況マップ】1分半で振り返るウクライナ侵攻…都市を巡るロシアとの攻防

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QQsojToFXS8

ミンスク合意(2015年)


ミンスク2 (ミンスク合意)

ウィキペディアWikipedia) より
正式名称ミンスク両合意履行のための方策パッケージ、通称ミンスク2(英語: Minsk II)とは、2015年2月11日にベラルーシミンスクで調印された、東部ウクライナにおける紛争(ドンバス戦争)の停戦を意図した協定である。 欧州安全保障協力機構(OSCE)の監督の下、フランスとドイツが仲介して、ウクライナとロシアが署名した。2014年9月5日に調印されたミンスク議定書による停戦を復活させることを目的としている。
しかし、親露派武装勢力が占領するウクライナ東部の2地域に幅広い自治権を認める「特別な地位」を与えるとの内容も含まれたこの合意は、ウクライナ国内で不満も出ていたことから、2019年に大統領になり、当初融和派だったウォロディミル・ゼレンスキーも翻意して履行せず、反故に動いた。一方、親露派とロシア側も、合意で定められた「外国の武装組織の撤退」や「違法なグループの武装解除」を守ってこなかった。

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エリア・スタディーNATO北大西洋条約機構)を知るための71章

【目次】
はじめに
第1部 NATOとはどのような組織か
第2部 冷戦期の展開
第3部 冷戦の終焉
第4部 冷戦後の危機管理

第5部 冷戦後の拡大をめぐって

第6部 ウクライナ危機とNATO主要国の対応
第7部 集団防衛への回帰――今後のNATO
第8部 日本とNATO

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NATO北大西洋条約機構)を知るための71章』

広瀬佳一/編著 明石書店 2023年発行

第5部 冷戦後の拡大をめぐって より

第41章 ウクライナ――脱中立の苦しみ 【執筆者】藤森信吉(ウクライナ地域研究員)

ソ連の構成共和国であったウクライナは、1991年12月の連邦解体によってNATO・ロシア間の独立国として立ち現れた。ウクライナ指導部は自国を「中・東欧国」と定義していたが、同時にウクライナを「スラブ兄弟民族国」とみなす隣国ロシアとの関係を意識しており、ソ連時代の1990年7月に「軍事的中立国」と「非核保有国」を宣言していた。中立と非核保有国は、ソ連解体を決定づけたロシア・ウクライナベラルーシ三国による「独立国家共同体(CIS)創設条約」内でも引き続き確認確認された。独立後、ウクライナは、中立圏を創設しロシア・NATO間の架け橋となる中立外交を推進したが、その一方で、旧ソ連戦略核兵器の所有権や黒海艦隊基地の帰属をめぐってロシアと対立を深めており、欧米からの安保の提供を求めるようになった。

このような安全保障政策は、中・東欧諸国のNATO加盟志向と、欧米のリスボン議定書(「核兵器のロシア搬出」「非核保有国として核兵器不拡散条約(NPT)加盟」)履行を渋るウクライナに対する不信により、行き詰まっていく。一方、ウクライナ国内では「中立」は受け入れられ、「NATO加盟」「(ロシアを含む)CIS諸国との軍事同盟」を上回る支持を獲得した。西部ハリチナ地方では反ロ感情が強かったが、大多数の国民はロシアを脅威とみなさず、ロシア侵攻を受ける2014年まで「NATO加盟」支持が多数意見となることはなかった。

1994年1月にNATOが立ち上げた「平和のためのパートナシップ(PfP)」プログラムは、中立圏構想が破綻していたウクライナにとって渡りに船であった。中立を維持しつつNATOとの関係を強化できるからである。調印後、ウクライナはPfPを通じてNATOとの信頼醸成に努めて、NATOからなんらかの安全保障の確約を得る政策へとシフトしていった。また、1994年12月には、核保有国がウクライナの安全を保障することを約したブタペスト議定書が調印され、ウクライナの非核化に道筋がつけられた。

1997年は、「NATO・ロシア基本文書」が調印された年であるが、同時に、「ウクライナNATO特別パートナシップ憲章」「ウクライナ・ロシア友好善隣条約」が結ばれた年でもある。特別パートナシップ憲章で明記された安全保障は「ブタペスト議定書」において核兵器保有国が提供した「安全保障の確約(Security Assurances)文言の繰り返しにすぎなかったが、両者の接近はロシアを刺激することになった。友好善隣条約と同時に二国間で結ばれた黒海艦隊分割協定は、ウクライナの対ロ・ガス債務と相殺することで2017年までロシア黒海艦隊がウクライナ領クリミアに合法的に駐留することを規定しており、「ウクライナNATO加盟を阻止するもの」とロシアは位置づけていた。こうした自国の安全保障と経済とのトレードは、当時のウクライナ政権にとってNATO加盟が喫緊の課題ではなかったことを示している。

2001年9月の同時多発テロによるNATO・ロシア関係の改善は、ウクライナNATO加盟の意思を表明する奇貨となった。翌年、ウクライナ政府は従来のEU加盟に加えNATO加盟も国定る外交政策を採用したが、この時期のウクライナNATO関係は、クチマ政権(当時)の非民主的な統治とイラクへのレーダー設備売却疑惑によって最悪であり、関係進展は2004年のオレンジ革命を待たなければならなかった。オレンジ革命を経て大統領に就任したユーシチェンコはNATO加盟路線を加速させ、2008年4月のブカレストNATO首脳会議でウクライナの「将来的な加盟」が言及されると政権は黒海艦隊基地協定の延長を行わないことを表明した。しかし政権の支持率上昇に結びつかず、リーマンショックによる経済危機のなか、再選を果たせず政権を去った。

代わって2010年に大統領に就任したヤヌコヴィッチは、景気浮揚のため、ロシアの求めに応じて安全保障の切り売りをはじめた。同年3月、ヤヌコヴィッチは天然ガス供給価格の引き下げを条件にロシア黒海艦隊の駐留契約の延長で合意し、さらにウクライナ議会に中立回帰を決議させた。2013年秋にはロシアからさらなるガス価格引き下げと財政支援策を提示され、EUとの連合協定の調印を延期したが、このことが首都キーウにおける抗議集会を引き起こし、最終的にヤヌコヴィッチ政権の崩壊、ロシアのクリミア占領・編入宣言とウクライナ東部ドンバス地方への軍事干渉へつながっていった。

ロシアはドンバスで二度にわたりウクライナ軍に大打撃を与え、ドイツ、フランスが仲介した和平合意(ミンスク合意)を通じてウクライナ新政権に軍事的中立を迫まった。

しかし、ときのポロシェンコ政権は、ロシアによる国土占領と親ロ的な有権者(クリミア、ドンバス)の消滅を受けて、中立破棄・NATO加盟路線を選択し、2019年には憲法NATO加盟条項が盛り込まれた。ブダペスト義弟者がまったく機能しなかったことも、こうした政策の背景にある。ロシアのウクライナ侵攻に際し、NATOは「ウクライナ側に立つ」ことを表明していたが、「加盟のための行動計画(MAP)」に参加させることはなかった。

しかし、ウクライナNATOから、既存のプログラムやNATO信託基金を通じて軍の組織改革の支援を受け、急速に国軍の強化・NATOの標準化を進めていった。

ウクライナNATO加盟路線は2020年に誕生したゼレンスキー政権においても維持されたがミンスク合意の履行をめぐりロシアとの緊張が高まっていった。2022年2月、ロシアは、ミンスク合意を通じたウクライナ中立化を諦め、特別軍事作戦と称する前面侵攻を開始した。
開戦により、ウクライナ国内の反ロシア感情、NATO加盟支持が沸騰したが、開戦直後の停戦協議において中立回帰が条件として登場したり、その後の反攻成功で停戦協議が打ち切られNATO加盟申請が行われたりと、ウクライナの加盟政策は戦況の影響を受けている。いずれにしても将来的な加盟までの期間、どのような安全保障をNATOやその加盟国から取りつけるかが、停戦・ロシアの再侵攻抑止のカギとなっている。