欧米はロシアへの約束を破ったのか ―― NATO東方不拡大の約束は存在した
2014年12月号掲載論文 FOREIGN AFFAIRS JAPAN
「NATOゾーンの拡大は受け入れられない」と主張するゴルバチョフ大統領に、ベーカー米国務長官は「われわれも同じ立場だ」と応えた。
公開された国務省の会議録によれば、ベーカーはソビエトに対して「NATOの管轄地域、あるいは戦力が東方へと拡大することはない」と明確な保証を与えている。
この意味ではNATOを東方に拡大させないという約束は明らかに存在した。約束は文書化されなかったが、東西ドイツは統合し、ソビエトは戦力を引き揚げ、NATOは現状を維持する。これが当時の了解だった。ドイツ統一に合意すれば欧米は(NATOの東方拡大を)自制するとモスクワが考えたとしても無理はなかった。
しかし、「ワシントンは二枚舌を使ったという点で有罪であり、したがって、モスクワのウクライナにおける最近の行動も正当化される」と考えるのは論理の飛躍がある。
https://www.foreignaffairsj.co.jp/articles/201412_shifrinson/
第3部 冷戦の終焉 より
第17章 ドイツ統一とNATO――「東ドイツ方式」によるNATO拡大 【執筆者】吉留公太(神奈川大学経営学部教授)
1990年10月3日に達成したドイツ統一の実態は、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)による東ドイツ(ドイツ民主共和国)の吸収合併であった。東ドイツは当時の西ドイツ基本法第23条に沿って西ドイツに編入された。NATOとECの加盟国としての西ドイツの国際的地位は統一後も維持され、ワルシャワ条約機構と経済相互援助会議(コメコン)の加盟国であった東ドイツの国際的地位は解消された。
ただし、旧東ドイツ領域のNATO編入はドイツ人の自決権から派生した「同盟選択権」を根拠としたが、ドイツ最終規定条約により条件づけられた(1990年9月12日調印、91年3月15日発効)。同条約は、東西ドイツと第二次世界大戦の対独戦勝4ヵ国(アメリカ、ソ連、イギリス、フランス)による「2+4(ツー・プラス・フォー)」交渉の結論を条文化したものである。条件の内容は、当時のノルウェーとNATOの関係――平時に大規模な外国軍を常駐させず核兵器も配備しない――と似ていたが、ソ連も参加した条約で規定した点でいえば「東ドイツ方式」とでも表現しうる特徴を持つことになった。
東西ドイツ両英府が「東ドイツ方式」を受容した背景には、ソ連やヨーロッパ諸国の抱くドイツ大国化の懸念、第二次世界大戦でのドイツの敗戦、占領、国家分断歴史的経緯に加え、ソ連軍が東ドイツに駐留しており(撤退完了は1994年)、ワルシャワ条約機構の残存していたという事情があった(同機構の活動停止は1991年3月、解散は同年7月)。
統一ドイツへの制約は旧東ドイツ領域でのNATOの活動に対するものだけではない。ドイツ最終規定条約は、戦勝4ヵ国が留保してきたドイツ全体とベルリンの地位変更に関する権限(「留保権」)を解消し、第二次世界大戦後のドイツの主権に課せられた制約を取り払った。
しかし同条約は、ポーランドとの「オーデル・ナイセ線」をはじめとする東西ドイツと周辺国の国境維持を規定したため、西ドイツが建前としてきた1937年末の旧ドイツ帝国領――東西ドイツにシュレジエンや東プロイセンなどの旧東部領土を含む――を「再統一」するという目標は放棄された。統一ドイツは大量破壊兵器の製造、保有、管理を禁じられ、旧東ドイツ駐留ソ連軍の撤退後、同領域に外国軍や核兵器とその運搬手段を駐留または「配備」(展開)させることも禁じられた。さらに、当時の欧州通常戦力(CFE)削減交渉に東西ドイツが自発的に報告する形式をとったが、統一ドイツの兵員数はCFE条約の発効後3~4年以内に37万人以下とすることも定められた。
もっとも、ドイツ最終規定条約には覚書が付されており、外国軍などの「配備」の意味は同条約調印国の利害に配慮してドイツ英府が判断するものとされた。また、同条約は旧西ドイツ領域とNATOとの関係を特に制限しておらず、アメリカが旧西ドイツ配備した核戦力や基地は維持された。このように形式的には制約つきのNATO編入でありながら、実質的には抜け道もある二面性が生じた主な理由は、ドイツ統一交渉での西側の姿勢が必ずしも一貫していなかったことに求められる。
ドイツ統一交渉でソ連は、ヨーロッパに集団安全保障体制を構築することと統一ドイツの安全保障上の性格形成を「同期化」するように求めた。欧州安全保障協力会議(CSCE)を基軸とした安全保障秩序を形成するため、NATOとワルシャワ条約機構の双方を変容させ、さらに統一ドイツがNATOと距離を置くことを要求したのである。そして「同期化」の見通しが立つまで、東西ドイツの国内制度が統一されようとも竜保権の解消を先送りする方針をしめした。おれは東ドイツ駐留ソ連軍の撤退を遅らせることを含意していた。
アメリカのベーカー国務長官や西ドイツのゲンシャー外相らは、ソ連を「2+4」に参加させて統一ドイツのnATO帰属を容認してもらうため、ソ連に経済支援だけではなく安全保障上の譲歩も示すことが必要だと考えた。1990年2月9日にベーカーがソ連のゴルバチョフ書記長と会談した際に行った、統一ドイツをNATOに帰属させても「NATO軍の管轄は1インチも東に拡大しない」との発言は安全保障上の対ソ譲歩論を象徴するものであった。
しかし、アメリカのブッシュ(父)大統領やスコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官らは、ソ連が東欧で武力行使する力を失いつつあると判断しており、吸収合併型のドイツ統一を早期に実現して冷戦勝利を確実にすることを目指していた。彼らはソ連に譲歩しすぎればドイツの中立化と統一との取引を招きかねず、アメリアが西ドイツに配備した核兵器の撤去や基地の撤退を迫られたりNATOの行動を制約されたりしかねないと警戒した。
ブッシュは1990年2月末の米独首脳会談で西側による冷戦勝利を強調し、西ドイツのコール首相だけでなく同席したベーカー国務長官にも対ソ譲歩の抑制を求めた。ブッシュは1989年12月のマルタ米ソ首脳会談でも冷戦終結の共同宣言を避けるなど、ヨーロッパ秩序再編に関するソ連の影響力を制約しようとしていた。
当時のソ連は東欧民主化に直面し、国内でも市場経済化や連邦制改革に関する対立を抱えており、ドイツ統一交渉で「同期化」の主張を貫けなかった。1990年7月の独ソ首脳会談において、コールは東ドイツ駐留ソ連軍の撤退費用等の名目で対ソ経済支援を約束し、金額を追って協議する方針を示した。ゴルバチョフはドイツ人が「同盟選択権」を持つことを認めて東ドイツ領域のNATO編入を容認した。これでドイツ統一交渉は山場を越えた。
ただし、冷戦勝利を確実にするというブッシュの目標は先送りされた。1990年8月に勃発したペルシャ湾岸危機に対応するため、ブッシュは米ソ連携を呼びかけ、対ソ経済支援を各国に促したからである。統一ドイツが提供する対ソ経済支援の金額交渉もソ連に有利な形で展開した。こうして「2+4」交渉は1990年9月に妥結し、10月にドイツ統一が実現した。
同年11月に開催されたCSCEパリ首脳会議はヨーロッパでの冷戦対立の終結を確認し(「パリ憲章」)、直前に行われたCFE条約調印式が冷戦終結に具体性を与えた。ソ連はかろうじて面子を保ったはずであった。