じじぃの「カオス・地球_247_関眞興・ドイツ史・ベルリンの壁」

The Berlin Wall: A Short History of its Rise and Fall

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8thC4hOn_C8

Fall of the Berlin Wall


The Berlin Wall fell 30 years ago. But an invisible barrier still divides Germany

November 8, 2019 CNN
Jubilant crowds stormed the concrete blockade dividing the East and the West on November 9, 1989, just minutes after the Communist German Democratic Republic (GDR) announced that travel restrictions would be lifted for East Germans.
The propaganda and fear were replaced with a sense of freedom and unity.
https://edition.cnn.com/2019/11/07/europe/berlin-wall-fall-30th-anniversary-intl-grm/index.html

一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国
2 オーストリアプロイセン
3 動乱のドイツ連邦
4 近代ドイツ帝国
5 ワイマール共和国からナチスドイツへ

6 連邦共和国と民主共和国

                  • -

『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

6 連邦共和国と民主共和国 より

ベルリンの壁」が登場
ドイツの分裂状態が続くなか、1958年に新たな問題が起こります・フルシチョフが、西ベルリンを非武装として、軍隊・武器などを撤去さえようと提案したのです。この提案に対し、アメリカ・イギリス・フランスなどは反対しました。

戦後、東西ドイツの経済格差はどんどん拡大していました。順調に発展を続ける西ドイツに対し、東ドイツ経済の低迷は深刻で、東ドイツから西ドイツに逃げ出す人が増えていました。ベルリンは東西ドイツが混ざり合う重要な都市であり、分断されると永遠に別の国のままになってしまうからです。

しかし、東ドイツ政府は1961年8月、変わらないベルリンの状況に業を煮やし、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断。西ベルリンの全域を有刺鉄線で囲んでしまいました。さらに同年、コンクリートの壁を築き、監視を始めます。


いわゆるベルリンの壁の登場で、西ベルリンは1948年のベルリン封鎖以来、ふたたび陸の孤島となりました。東ドイツ政府は、壁を乗り越えようとする人々を容赦なく射殺し、多くの犠牲者が出ました。

ベルリンの壁の設置は、東西対立の象徴として対立を深めました。

冷戦の終わり
1989年、ソ連の最高指導者であるゴルバチョフが進めたペレストロイカ(改革)によって締め付けが弱まると、東ヨーロッパ諸国では自由を要求する声が高まりました。5月、ハンガリーではオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網が撤去され、自由に出国できるようになります。これを知った東ドイツの国民も、「我々こそ人民(主権者)だ」と叫んで、出国の自由や意見表明の自由を求めてデモを起こしました。ところが、東ドイツ国家評議会議長エーリッヒ・ホーネッカーは動こうとしません。

さらに6月、民主化を求める若者たちが天安門(てんあんもん)広場に集まり中国共産党に弾圧された「天安門事件」が起こります。世界の多くの国が中国を非難するなか、東ドイツ政府は弾圧を支持したため、国民は怒りました。長く国民が不満に感じていた物資の不足はいっこうに解消されず、不満はますます大きくなっていきます。

ついに壁が崩壊
1989年10月、ライプツィヒで、東ドイツ政府に対する抗議デモが起こりました。それをきっかけに東ドイツ全域にデモが広がり、11月4日の東ベルリンで行われたデモには、100万を超す東ドイツの国民が参加しました。

混乱のなかでホーネッカーは辞任。エゴン・クレンツが新書記長に選出されました。クレンツは一定の自由を約束したものの、東ドイツ国民は納得しませんでした。

11月9日には東ドイツ政府が記者会見で、出国の自由を認めたと受け取れるあいまいな発表をします。その日の夜、ベルリンの壁にベルリン市民が殺到しました。

国境警備隊と群衆の押し問答の末、国境検問所は解放され、翌日、東ドイツ国民の手でベルリンの壁の撤去作業が始まりました。長らく東西冷戦の象徴であったベルリンの壁は、ついに崩壊しました。その背景には、言論の自由、移動の自由を求める国民の強い意識があったのです。

そして12月、ゴルバチョフアメリカ大統領ブッシュが会見し、「冷戦」の終結を確認しました。東ドイツの政体が崩壊した1番の原因は、この冷戦が終わったことです。

統一は簡単じゃない
壁の崩壊後、東ドイツのクレンツ書記長と西ドイツのヘルムート・コール首相は将来のドイツのあり方について話し合いました。経済の不振だけでなく、ソ連の混乱などから、いずれ東ドイツの体制が崩壊することは誰もが予想していましたが、実際に東西ドイツを統一するとなると、簡単ではありません。

しかし、政府に不満を持っていた東ドイツ国民は、すぐにでも統一されることを期待し、西ドイツへと流入しました。
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1990年5月、東西ドイツアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の6ヵ国の外相会議が開催され、東西ドイツの統合を4ヵ国が承認します。さらに、統一されたドイツのポーランドとの国境が決まりました。EC諸国とドイツの今後の関係が話し合われ、8月31日、ドイツ統一条約が結ばれました。

そして10月3日、西ドイツ基本法23条に基づき、東ドイツの各州が西ドイツに加入する形式がとられました。こうして、東西ドイツは統合されたのです。