じじぃの「カオス・地球_246_関眞興・ドイツ史・マーシャル・プラン」

The Berlin Blockade (10m)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CZidBq8QS-g

The city of Berlin was divided by the Allies in the aftermath of World War II


   

A group of young Berliners wave and cheer as an Allied plane delivers various goods.


THE COLD WAR IGNITES: THE BERLIN BLOCKADE AND AIRLIFT

Jun 5, 2021 History Guild
The Berlin Blockade and the subsequent airlift became the first major episode of the Cold War and although it lasted just under one year, (June 1948 to May 1949), set the stage for the kind of indirect confrontation that would characterize the Cold War period.
Though the barriers of a divided Berlin had been set out, the Soviets felt increasingly insecure about their ability to control their sector and the people within it. In an effort to stunt the economic growth of West Berlin, the USSR blocked much of the Allies’ road, railway, and canal access. With the blockade in place, suddenly some 2.5 million Berliners had little to no access to quality food, medicine, electricity, and other basic commodities.
https://historyguild.org/the-cold-war-ignites-the-berlin-blockade-and-airlift/

一冊でわかるドイツ史

【目次】
プロローグ
1 始まりはフランク王国
2 オーストリアプロイセン
3 動乱のドイツ連邦
4 近代ドイツ帝国
5 ワイマール共和国からナチスドイツへ

6 連邦共和国と民主共和国

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『一冊でわかるドイツ史』

関眞興/著 河出書房新社 2019年発行

ドイツとはどういう国か。その歴史を図やイラストを使いながらわかりやすく、ていねいに描く。コラム「そのころ、日本では?」「知れば知るほどおもしろいドイツの偉人」も役に立つ。

6 連邦共和国と民主共和国 より

バラバラになったドイツ
戦争末期からアメリカ・イギリス・ソ連の3国は、新しいドイツ国家の体制について話し合っていました。戦後になると、これにフランスも加わります。ところが4ヵ国の思惑はバラバラで、新生ドイツの国家体制をめぐり、自由主義経済を掲げるか、社会主義体制をとるかという問題が出てきます。

1947年に行なわれた4ヵ国外相会談は、ソ連とそれ以外の3ヵ国の主張が対立し、決裂。合意は不可能になりました。アメリカ・イギリス・フランスの3国はソ連との交渉を断念し、3国の占領地域に新国家(西ドイツ)を建設。それを自由主義体制の西側陣営に組み込む意思を固めました。これにより、ドイツの分割が決定したのです。

マーシャル・プランって?
アメリカ・イギリス・フランスの3ヵ国のうち、フランスは、対立続きであったドイツとの対立の歴史をふまえ、終戦直後はドイツが弱体化することを第一に考えていました。ところが、社会主義国家であるソ連の脅威がドイツ以上であると認識すると、ドイツを敵視するよりも、ともに歩む方向で考えるようになっていきます。

アメリカは1947年、ヨーロッパの復興を経済的に支援するため、当時の国務長官の名にちなむマーシャル・プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)を発表しました。翌年、そのための機関としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が組織されます。

戦後のドイツでは経済の混乱から、貨幣への信用がなくなっていました。庶民の日常生活は物々交換があたりまえのように行われ、たばこが通貨代わりになっているという状態だったのです。そこで、占領軍の指導のもと通貨改革を行い、連合国の占領地域では新ドイツ・マルクが発行されました。

それより前に、ソ連ドイツ国内の占領地域でも新しいマルク紙幣を発行していましたが、マーシャル・プランによって価値を保障された新ドイツ・マルクが広く普及し、ソ連占領地域の新ドイツ・マルクの価値は低いとされました。

ソ連はこれに対し、1948年6月にアメリカ・イギリス・フランスが占領する地帯から、自国が占領する地帯を通って西ベルリンにいたる交通路を遮断しました。これをベルリン封鎖といいます。

以後、ベルリンは西と東に分断されます。電気や水の供給がストップしたことで、西ベルリンの市民は、生活ができなくなってしまいました。

アメリカとイギリスは、陸の孤島(ことう)となってしまった西ベルリンに向けて、封鎖の対象でなかった空路を使い、石炭や食料を送る「大空輸作戦」を展開します。のべ27万回にわたって物資が運ばれ、ソ連に封鎖に効果がないと判断。1949年5月にベルリン封鎖は解除されました。

西と東は相いれない

1949年、NATO北大西洋条約機構)が結成されました。アメリカ・カナダ・イタリア・フランス・デンマークなど、全12ヵ国によって結ばれた条約の内容は、加盟国への攻撃を、全加盟国が受けたものとみなし、協力して防衛するというものでした。1955年に、西ドイツも加盟しました。

一方のソ連も1949年、ポーランドなど東欧6ヵ国と経済相互援助会議(コメコン)を結成。東ドイツは1950年、こちらに加入しました。

ドイツの再統一を目指していたアデナウアーは、その第一歩として、1955年にソ連を訪問し、国交を樹立します。しかし、ソ連は同年、西ドイツのNATO加盟に対抗して、ワルシャワ条約機構WTO)を結成しました。東ドイツは、翌年にワルシャワ条約機構に加盟しました。

アデナウアーはこうした東ドイツの動きに対抗し、その後の西ドイツ外交の基本となる「ハルシュタイン原則」を発表します。西ドイツは、東ドイツと国交を持つ国とはソ連を除いて国交を持たないという内容で、ドイツ派あくまでも1つであるという立場を貫きました。このような米ソ対立の国際関係のなかで、ドイツ人どうしが対立せざるを得なくなっていくのです。