「ベルリンの壁」を崩壊させたフライング発表の高官死亡
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国内外で評価割れたゴルバチョフ氏、プーチン氏はソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」
2022/08/31 読売新聞
ゴルバチョフ氏は、疲弊したソ連を存続させるため、米国との和解を軸にした「新思考外交」を展開し、1989年の「ベルリンの壁」崩壊や、翌年の東西ドイツ統一にも道を開き、その功績が称賛された。
だが露国内では、米国と並ぶ超大国を崩壊させ、国民生活に大混乱をもたらした張本人という否定的な見方が定着している。
ソ連末期と崩壊後のロシア社会の大混乱は、プーチン氏が強権統治による「安定」をアピールし、長期支配を続ける格好の材料にもなってきた。プーチン氏は1991年のソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と評した。ウクライナ侵略を巡っては、かつてのソ連の版図回復が目的との見方がある。
https://www.yomiuri.co.jp/world/20220831-OYT1T50171/
第2章 プーチンとは、いったい何者なのか?――スパイを夢見た少年時代、若き日の挫折、そして一大転機で権力者へ
第3章 どうやってロシア大統領になったのか?――最高権力者まで上り詰めた疾風怒涛の4年間
第4章 権力者となったプーチンをとりまく人々――政治を動かすオリガルヒ、愛すべき家族や親族
第5章 プーチンが築きあげた“盗人支配”と“監視”のシステムとは?――クレプトクラットが盗み、シロヴィキが見張る
第6章 プーチンの支配はいつまで続き、どう倒れるのか?――プーチンの哀れな末路と、ロシア再生への道
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第2章 プーチンとは、いったい何者なのか?――スパイを夢見た少年時代、若き日の挫折、そして一大転機で権力者へ より
プーチンは「地味なスパイ」だった?
――プーチンの東ドイツでのスパイ生活は、どんなものだったのですか? 憧れだった007や、戦前の日本で活躍した大物スパイ・ゾルゲのような活動は?
以下、強調印字は筆者による。
いえ、スパイとしてのプーチンのキャリアは、華やかさにまったく欠けています。
本来のソ連スパイならば、西ドイツにエージェントをつくり、NATO(北大西洋条約機構)をはじめ西側の機密や軍事技術を盗まなければなりません。西独の情報提供者の家への電話設置をシュタージに依頼した書類が1件だけ残っていますが、ほかにめぼしい諜報活動をした形跡がありません。
プーチンは、もっぱら西ベルリンまで足をのばしてはパソコンなどIT機器を調べていたようです。西ベルリンの分厚い通信カタログを時間をかけてよく見ていた、と同僚が語っています。
東ベルリンには、ドレスデン駐在KGBの上司マトヴェーエフ大佐がシュタージ本部と常時連絡を取りあい、情報交換する必要から、連絡係としてよく出かけました。そこで1人静かにドイツ・ビールを飲むのが楽しみでした。プーチンはこう回想しています。
「5年間リラックスしていたのと、ドイツ・ビールのおかげで13キロも太ったが、ロシアに帰国してすぐ体重が減った。90年代のロシアのビールは、ほんとにまずかった」
89年10月、東ドイツの政情が激変しました。
民主化デモの収拾に失敗したホーネッカー議長がが解任され、61年8月に造られた総延長156キロもあった「ベルリンの壁」が壊されたのです。落書きした壁の破片を売る者まで現われました。東ベルリンのシュタージ支部もデモ隊に荒らされ、やがてドレスデンのシュタージ本部にも市民が押しかけてくるようになってしまいました。
プーチンは庭で機密文書を燃やす日々に明け暮れ、重要な書類を選り分けては、せっせとモスクワに送り続けました。
ある日シュタージ支部のむかい、プーチン一家の住んでいた官舎の庭に、デモ隊の市民たちが侵入してきました。プーチンはピストルをかまえ「許可なく立ち入るな。ここの同僚たちは皆武装していて、身に危険が迫ったら撃ってもいいことになっている」と凄んでみせました。流暢なドイツ語に、デモ隊連中は「お前は誰だ?」と口々に叫んでいました。プーチンはとっさに「俺は通訳だ」と答え、その場をうまく切り抜けました。KGBの一員とわかれば袋だたきにあい、命すら危なかったでしょう。
この間プーチンは、モスクワとずっと連絡を取り続け、救援を求めました。でも、モスクワからは一向に返事がありません。56年のハンガリー動乱(ソ連やハンガリー共産党政権に反対して民衆が蜂起)や68年のチェコ事件(改革運動「プラハの春」)では、フルシチョフやブレジネフがすぐにソ連戦車を送ったのに、今回はなしのつぶてです。
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ソ連軍基地はドレスデンにもあり、戦車を越境させるまでもなく、基地から出るだけだけで活動できるわけです。しかし、ソ連軍は動かず、94年まで東独にじっと留まり続けるだけでした。ゴルバチョフが武力行使を控えたのだ、とのちにプーチンはいまいましく語っています。
85年ソ連書記長になったゴルバチョフは86年4月、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)を唱えました。この大胆な改革がポーランドやチェコに波及し、やがてソ連の”優等生”と言われた東独にも、大変革をもたらしたのです。
しかし、その後は、ソ連国内の経済悪化、炭鉱労働者の一斉スト、バルト三国の性急な反発など問題が山積。東独の面倒を見るどころではありません。チェチェン紛争やKGB改革(人員減らし策が逆に人員増大)に振り回され、混乱の極みでした。
ゴルバチョフの書記長就任からたった4年半で、ソ連国内は想像もできないほど激変してしまったのです。ゴルバチョフは90年3月の大統領選挙(代議員大会による間接選挙)で初代ソ連大統領になりましたが、そのまま最後のソ連大統領となってしまいました。
「冷戦を終わらせ、ペレストロイカをやり遂げた」と終生誇りにしていたゴルバチョフは、死の直前「その自分の業績が、プーチンによって台無しにされてしまった」と実感していました。
ゴルバチョフは22年8月31日、モスクワの中央クリニック病院で、糖尿病の悪化による内臓機能不全で亡くなっています。ゴルバチョフの葬儀は国葬ではなく、記念式典などに使われる「モスクワ円柱の間」という建物で行なわれ、儀仗兵が、国から派遣されただけでした。プーチンはゴルバチョフをうらんでいました。