いかにして権力を握り、現在の統治国家を築き上げたのか――ドキュメンタリー『プーチンより愛を込めて』予告編【2023年4月21日公開】
ソ連崩壊‐ロシア連邦誕生、30周年! 新たな歴史史料・当事者の回想から、20世紀最大の激動史の真相を描く
2021.12.14 じんぶん堂
●新史料によって明らかになってきたエリツィンの実像
21世紀になって、「後継者」となったプーチンの時代になると、エリツィンの伝記、彼とともに8月クーデターに抵抗し挫折させることでロシアの国家主権をまもった関係者の回想が、クーデター派の証言とともに出版されてきた。
こうしてエリツィンのロシア観――特にロシアが300年前にウクライナと「ロシア帝国」を形成する以前の、いわば「聖なるロシア的」を信じて弾圧されたロシア正教古儀式派の末裔であったこと――が浮かび上がってきた。
エリツィンとその幹部が共有したロシア観は、いわばこの「影のロシア国民国家」というべき潮流をソ連崩壊によって現実のロシア連邦に転換させた点で、単なるポピュリスト政治家ではなかったことが明らかとなった。
https://book.asahi.com/jinbun/article/14499788
プーチンは何をしたかったのか?
【目次】
はじめに
第1章 プーチンは、何をしたかったのか?――なぜクリミア併合、ウクライナ侵攻へ至ったか
第2章 プーチンとは、いったい何者なのか?――スパイを夢見た少年時代、若き日の挫折、そして一大転機で権力者へ
第3章 どうやってロシア大統領になったのか?――最高権力者まで上り詰めた疾風怒涛の4年間
第4章 権力者となったプーチンをとりまく人々――政治を動かすオリガルヒ、愛すべき家族や親族
第5章 プーチンが築きあげた“盗人支配”と“監視”のシステムとは?――クレプトクラットが盗み、シロヴィキが見張る
第6章 プーチンの支配はいつまで続き、どう倒れるのか?――プーチンの哀れな末路と、ロシア再生への道
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第3章 どうやってロシア大統領になったのか?――最高権力者まで上り詰めた疾風怒涛の4年間 より
プーチンが頭角を現しはじめた当時、ロシアの状況は?
――まず、プーチンがペテルブルグからモスクワへ出たころの、ロシア中央の政治状況を教えてください。1991年末のソ連解体前からエリツィン大統領でしたね。
以下、強調印字は筆者による。
91年7月にロシア大統領(任期5年)に就任したエリツィンは、急激な経済改革と資本主義の導入を進めました。しかし、価格自由化や国債乱発がハイパーインフルを招いて失業が激増、民営化を巧妙に利用して国有企業を手に入れ、巨大な富を築くオリガルヒ(新興財閥)も現れて、貧富の差はソ連邦時代以上に拡大しました。貧困に苦しむ人びとが支持したロシア共産党が第1党に躍進。エリツィン支持率は2ケタを割った、とすら見られたほどです。
経済の混乱に加えて94年に第1次チェチェン紛争が勃発。しかも91年9月に独立宣言をし、ロシアに戦いをのぞむチェチェンに、エリツィン大統領はかかりきりでした。94年12月に厳しい空爆をおこない、首都グローズヌイを征服しました。それ以外では熱戦が継続中でした。それでもエリツィンは96年2月、大統領選に出馬を表明します。陣営の選挙対策委員長は大統領長官チュバイスでした。
96年6月の大統領選第1回目投票では、誰も過半数に達せず、得票率はエリツィン35%、共産党委員長のジュガーノフ32%、軍人出身のレベジ14.5%。ジュガーノフは党の組織力もあり、都市部より農村や小さな町で人気が高く、共産党が復活しそうな勢いです。
そこでエリツィンは、安全保障会議書記(当時、議長に相当)の要職に加えて憲法に明記のない副大統領の地位をレベジに用意。1・2位の決戦投票で彼の票をもらう約束を密かに取り付けました。レベジは2ヵ月もたたないうちに「陰謀を企てていた」ということで解任され、追放されました。チェチェン紛争を見事に和解までこぎつけていたのですが。
一方、エリツィンの娘タチアーナ大統領顧問は、大富豪ベレゾフスキーと会って、選挙を頼み込んでいます。彼は即決で1億2000万ドルの献金を約束。選対委員長チュバイスに、アメリカから選挙のプロ3人を招き、のちに「セミバンキルシチナ」(7人の銀行家)と呼ばれることになる富豪たちに協力を求めるよう提案しました。
共産党復活を恐れる富豪らのケネでメディアを総動員し、エリツィン支持の大キャンペーンを打とうというのです。集めたカネは約5億ドル。7月3日の決選投票ではエリツィンが53.7%の票を得て再選を決めました。最後の20日間ほとんど姿を見せず、じつは入院していて、8月の大統領就任式も宣誓をするのがやっとの様子。選挙で引き延ばしていた心臓バイパス手術を11月5日に受けてから、やや元気を取り戻したようでした。
――98年には、プーチンの上司だったボロディンやエリツィンやエリツィンの娘がからむ汚職スキャンダルが発覚しました。この問題で、プーチンはどう動いたのですか?
以下、強調印字は筆者による。
ロシア大統領府で総務局長や事務局長を歴任したボロディンは、旧ソ連の不動産管理から大統領機密費まで握ったエリツィンの”金庫番”です。彼は、エリツィンの意向を受けて、長く修繕や改修していなかったクレムリンの大々的な修復工事を150社(うち海外企業48社)に発注。欧米企業と数十億ドルの契約を交わしました。
しかし、スイス当局が、スイスの建設会社マベテックスとロシア側の不正取引(水増し請求、マネーロンダリング、キックバックなど)に気づいて捜査を開始。
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一方プーチンは、汚職事件を闇に葬るつもりでした。汚職スキャンダルのサプチャークを最後まで市長にしようと奮闘したことを思い出させます。汚職を問題視すれば自分に火の粉が及びかねないとの懸念もあったでしょうか、一度仕えた以上は見捨てずに仁義を貫くという思いが強いように感じます。いずれにせよ、案に相違してハデにばらされてしまったプーチンは、ストラトフ検事総長に”脅し”の手紙を送りつけています。
99年3月にはFSB長官プーチンと内務大臣ステパーシンがテレビ対談。「ショッキングなセックス・スキャンダル映像がある。それを公開する」といって、ストラトフ検事総長らしき人物がベッドで若い売春婦2人と丁々発止の親密なシーンを演じる7分半のビデオを放映したのです。検事総長は4月、直ちに解任されてしまいました。
大統領失脚の策謀はエリツィン側には知らされていなかったが、プリマコフは99年5月に首相を辞任しています。プーチンと会談したプリマコフは「プーチンはKGBのはるか後輩だが、断固たる信念を抱いていることがわかった」といっています。
エリツィンの足下をすくいかねない汚職事件の捜査を阻んだプーチンの存在は、政権内で非常に大きくなっていました。プーチンはエリツィン一家に大きな貸しをつくり、もはやエリツィンはプーチンに強く出ることができなくなりました。