じじぃの「カオス・地球_99_プーチンは何をしたかったのか?オレンジ革命」

「親ロシア」か「親欧米」で揺れ続けるウクライナ ロシアがウクライナにこだわるワケ【TV TOKYO International】(2022年2月18日)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=ISKne3jf-RY

ウクライナ 野党指導者ビクトル・ユシチェンコ氏の大統領選当選をオレンジ色の旗や風船を持って祝う支持者たち


ウクライナ第2の革命「オレンジ」に続くは何色に

2014年2月10日 AFPBB News
04年秋にウクライナを揺るがした「オレンジ革命」から9年、首都キエフ(Kiev)の独立広場(Independence Square)に面するホテルの最上階に泊まる客は今、この国を再び揺るがしている危機の色は、国旗と同じ黄色か青かと思いを巡らすかもしれない。

しかし「親欧米派を政権に」という欧州連合EU)加盟推進派による大規模なデモと、親ロシア政権のビクトル・ヤヌコーヴィチ(Viktor Yanukovych)大統領の対峙(たいじ)は、オレンジ革命のときのように自らがまとう色をまだ見出していない。

ロシアと親密な関係にあるヤヌコーヴィチ政権が、EU加盟の前提となる連合協定の署名を見送った昨年11月以降、大規模なデモは9日で10回目となる。爆発した親EU派の怒りは冷めることなくウクライナ全土へと広がり、地域的な国内問題だった騒乱は、ロシアとEUの間で揺れるウクライナの将来にとって巨大な闘争へと膨らんでいった。

https://www.afpbb.com/articles/-/3008189

プーチンは何をしたかったのか?

【目次】
はじめに

第1章 プーチンは、何をしたかったのか?――なぜクリミア併合、ウクライナ侵攻へ至ったか

第2章 プーチンとは、いったい何者なのか?――スパイを夢見た少年時代、若き日の挫折、そして一大転機で権力者へ
第3章 どうやってロシア大統領になったのか?――最高権力者まで上り詰めた疾風怒涛の4年間
第4章 権力者となったプーチンをとりまく人々――政治を動かすオリガルヒ、愛すべき家族や親族
第5章 プーチンが築きあげた“盗人支配”と“監視”のシステムとは?――クレプトクラットが盗み、シロヴィキが見張る
第6章 プーチンの支配はいつまで続き、どう倒れるのか?――プーチンの哀れな末路と、ロシア再生への道

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プーチンは何をしたかったのか?』

寺谷弘壬/著 アスコム 2023年発行
妻に恐怖の「バンパイア」と言われたプーチンの真実!ロシア研究60年の著者がQ&Aでズバリ回答!

第1章 プーチンは、何をしたかったのか?――なぜクリミア併合、ウクライナ侵攻へ至ったか より

プーチンウクライナを「攻めどき」と考えたのはなぜか?

――クリミア半島を喉から手が出るほどほしかったロシア側の発想は、わかりました。対してウクライナは何をやっていたのでしょう?

以下、強調印字は筆者による。
ウクライナという国は、ソ連崩壊の過程で、反ロシアと親ロシアの間で大きく揺れ動いてきました。

90年7月に出した主権宣言では、「核兵器を受け入れない、つくらない、手に入れない」との”非核3原則”を謳い、ソ連の核からの離脱を鮮明にしています。

背景には、86年4月のチェルノブイリ原発事故もありました。原発の場所はキーウ北約110キロ。事故で全土の8%が汚染され、被爆者340万人、強制移住が数十万人、事故処理従事者数万人が死亡、などとされています。ロシアはこの事故をアヴァリア(ロシア語でちょっとした事故)と言い張りました。

世界史上で非核三原則を掲げた国は、日本を除けばウクライナだけです。実際、ウクライナにあった核兵器は、96年までにすべてロシアに移されています。

04年11月には「オレンジ革命」(オレンジは野党側のシンボルカラー)が勃発しました。これは。東部を地盤とする02年から首相の親ロシア派ヤヌコーヴィチが当選した大統領選挙で、大規模な不正があった、と人びとが猛抗議した民主化運動です。再選挙の結果、親米・親欧派のユシチェンコが大統領に就任。彼は「クリミア半島のロシアへの貸与を17年で打ち切る」という法案作成を急ぎ、EUNATOへの加盟も真剣に考えていました。

ところが、10年の大統領選挙では、06年から首相だったヤヌコーヴィチが雪辱。ロシアは親ロ政権の誕生で、ほっと安堵しました。ロシア海軍の拠点セヴァストーポリ軍港については、ロシアが42年まで使い続けること、ロシアが租借両9800万ドルを19年から支払うことで、両国は合意しています。

50年生まれのヤヌコーヴィチは、17歳のとき暴力団に属して詐欺や強盗を働き、懲役3年を食らっています。2回首相を務め、公金を横領したり、プーチンから高額な賄賂をもらって宮殿のような豪邸を建てたりと、ウクライナの政治腐敗を象徴する人物です。

経済の混乱が続いて成長が停滞し、生活に苦しむウクライナ市民は、なおもロシアにすり寄って経済を立て直そうとする汚職政治に、怒りの声を上げました。
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ヤヌコーヴィチのその後を見ておきましょう。彼はロシアで「ウクライナに帰りたい」とつぶやいていたそうですが、母国では19年の欠席裁判で国家反逆罪などによって禁固13年の判決が出ており、帰国は無理(22年5月には、セヴァストーポリ駐留期間の延長でロシアと合意したことが反逆罪に当たるとして、逮捕状が出ています)。

15年3月には、ヤヌコーヴィチの次男がシベリアのバイカル湖水死。そのあと、彼の側近や秘書が次々と自殺したり、射殺されたりしました。22年2月のロシアによるウクライナ侵攻後も、ヤヌコーヴィチと近しかった知事や市長など10人近くが死亡しています。はたして偶然でしょうか。

14年の民主化運動は「マイダン革命」(マイダンはウクライナ語で「広場」)と呼ばれています。04年オレンジ革命当時は、前年にグルジアジョージア)で「バラ革命」が、05年にはキルギスタンで「チューリップ革命」が起こるなど、ロシア周辺諸国で反ロシアのうねりが起こりました。同じような反ロシアの動きが本格化したわけです。

オレンジ革命は「ロシアを取るか、ヨーロッパを取るか」の二者択一でした。10年後のマイダン革命は、政府の腐敗、脱税や贈収賄など汚職の横行、権力乱用や人権侵害を許されないという主張が加わりました。この点で「尊厳の革命」とも呼ばれています。

こうして反政府側は、ヤヌコーヴィチ政権の崩壊、04年時点の憲法復活、ウクライナ語を唯一の公用語とする決定、旧首脳らの訴追といった成果を得て、勝利しました。

ところが、これはロシアのプーチンにとっては”渡りに船”――それこそ”千載一隅”の大チャンスでした。ヤヌコーヴィチの失脚で、セヴァストーポリ貸与の打ちきり、EUNATO加盟のおそれが大きくなったが、ウクライナは依然として混乱状態にあるので、クリミアを手に入れるにはいましかない、とプーチンは思い定めたのでしょう。

クリミアと同時に、親ロシア勢力が強いウクライナ東部ドンバス地方への進出も狙い、親ロシア・反政府派を物資面で軍事的にも支援し、内戦状態に持ち込んだのです。