じじぃの「カオス・地球_98_プーチンは何をしたかったのか?ウクライナに侵攻」

【2/24 ten. 緊急解説】ロシアがウクライナへの軍事侵攻開始 いま何が起こっているのか?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=-SyQbKBO7vA

2月24日未明、ウクライナ国内で報じられた攻撃や爆発の位置を示す地図


6枚の地図が明らかにするロシア・ウクライナの衝突

2022.02.25 CNN
ロシアのプーチン大統領は24日、ウクライナで軍事作戦を開始した。
西側の主要国はそれ以前から数週間にわたり、攻撃が差し迫っていると警鐘を鳴らしていた。

だがロシアによるウクライナ侵攻はまた、数年にわたる緊張の高まりにより引き起こされたものでもある。以下の6枚の地図は、現状に至った出来事の数々を解説する手助けとなる。
https://www.cnn.co.jp/world/35184073.html

プーチンは何をしたかったのか?

【目次】
はじめに

第1章 プーチンは、何をしたかったのか?――なぜクリミア併合、ウクライナ侵攻へ至ったか

第2章 プーチンとは、いったい何者なのか?――スパイを夢見た少年時代、若き日の挫折、そして一大転機で権力者へ
第3章 どうやってロシア大統領になったのか?――最高権力者まで上り詰めた疾風怒涛の4年間
第4章 権力者となったプーチンをとりまく人々――政治を動かすオリガルヒ、愛すべき家族や親族
第5章 プーチンが築きあげた“盗人支配”と“監視”のシステムとは?――クレプトクラットが盗み、シロヴィキが見張る
第6章 プーチンの支配はいつまで続き、どう倒れるのか?――プーチンの哀れな末路と、ロシア再生への道

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プーチンは何をしたかったのか?』

寺谷弘壬/著 アスコム 2023年発行
妻に恐怖の「バンパイア」と言われたプーチンの真実!ロシア研究60年の著者がQ&Aでズバリ回答!

第1章 プーチンは、何をしたかったのか?――なぜクリミア併合、ウクライナ侵攻へ至ったか より

プーチンはなぜ、ウクライナに侵攻したのか?

――2022年2月24日、プーチン大統領の命令一下、ロシア軍は突如としてウクライナに侵攻。首都キーウを目指しました。プーチンの意図は何だったのでしょうか?

以下、強調印字は筆者による。
プーチンは、ウクライナの首都キーウをごく短期間で陥落させ、ゼレンスキー政権を崩壊させて親ロシア政権を樹立することを狙ったのです。

ロシアは21年からウクライナ国境沿いに軍事力増強していました。ベラルーシ軍と大規模な合同演習を繰り返し、兵士は引き揚げるが、車両や重装備をその場に残して物資を集積させていったのです。最初は文句をいっていたベラルーシのルカシェンコ大統領も、黙って支援するようになりました。

22年2月22日未明、ロシア自民党総裁ジリノウスキー(22年4月、新型コロナで死去)が議会で「ウクライナを攻撃」と発表。西側もロシアの侵攻必至と報道しはじめました。22年1月末、ロシア軍が輸出用血液を含む医療物資を国境近くに移動と米当局が明かし、情勢はいっそう緊迫。

ロシア側は、ウクライナ東部の親ロシア派地域で70万人にパスポートを発給して”自国民保護”の対象者を増やし、さらに21日、親ロ派が樹立していたドネツク・ルハンスク両人民共和国の独立を承認。軍事侵攻の直接の”口実”となる事実を積み重ねたうえで、ウクライナがネオナチに支配されたので、迫害されたロシア少数民族を救出するために、『特別軍事作戦』を展開する」と奇妙な論理を掲げ、2月24日未明から開戦に踏み切ったのです。

プーチンは当初、「戦闘はすぐに終わる」と考えていました。ゼレンスキー・ウクライナ大統領が死ぬか、亡命するか、あるいは逮捕されるか――いずれにせよ、政権の崩壊まで数日。長引いても2週間もたたずに片がつく、となめきっていました。

後釜のウクライナ大統領も決めていました。14年ウクライナ騒乱時の大統領でロシアへ亡命したヤヌコーヴィチでもよいし、ウクライナの富豪政治家でクチマ大統領時代の02~05年に大統領府長官だったメドヴェドチュクでもよい(彼の末娘の名付け親はプーチンです。メドヴェドチュクは22年4月反逆罪で逮捕され9月、ウクライナ人であるにもかかわらず、両国間の捕虜交換で身柄が引き渡されました)。

ところが、プーチンの思惑どおりには、事態は進みませんでした。ここでは軍事面の詳細には立ち入りませんが、プーチンの誤算は次のようなことが原因だったのでしょう。

首都攻略部隊が雪解けの泥濘(ぬかるみ)に足を取られ、2月末からキーウ北25キロ付近で停滞。1本道の車列は長さ60キロに達しました。
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米軍による訓練、以前から提供していた携行式地対空ミサイル・対戦車ミサイルなども功を奏しました。

第二次世界大戦時、ソ連軍はウクライナ方面でドイツ軍とさかんに戦いました。ハリコフ攻防戦などの経緯を見ると、3月の雪解けで戦闘が停止し、5月に再開されています。戦史をひもとけば、2月下旬のキーウ攻略作戦は無謀とわかりそうなものです。

ロシア軍幹部はウクライナ政権打倒をはやるプーチンに、異議申し立てできなかったのでしょう。

結局、キーウ攻略に失敗したロシア軍は、22年4~5月にキーウ方面から撤退し、北にいた部隊を南部・東部に転じました。その後の経緯については第6章に譲ります。