プーチン大統領_政敵_ 英国で死亡、死因は?
動画 nicovideo.jp
https://www.nicovideo.jp/watch/sm20434894
ロシアの実業家ボリス・ベレゾフスキー
露実業家、亡命先のロンドンで死去 プーチン大統領と対立
2013.03.24 CNN
ロシアの実業家ボリス・ベレゾフスキー氏が、滞在先のロンドン郊外で死亡しているのが見つかった。67歳だった。親族が23日に明らかにした。死因は不明とされ、警察が捜査を行っている。
ベレゾフスキー氏は数学者から実業家に転じ、エリツィン政権時代に事業を急速に拡大した。しかし1999年に政権の座に就いたプーチン大統領は、同氏のような実業家が政治的影響力を強めることを懸念して排除に乗り出した。
同氏はプーチン大統領との対立の末、英国へ亡命していた。ただペスコフ大統領報道官によると、約2ヵ月前に大統領への書簡で「数多くの過ち」を認めて許しを請い、帰国の許可を求めていたという。
https://www.cnn.co.jp/world/35029889.html
プーチンは何をしたかったのか?
【目次】
はじめに
第1章 プーチンは、何をしたかったのか?――なぜクリミア併合、ウクライナ侵攻へ至ったか
第2章 プーチンとは、いったい何者なのか?――スパイを夢見た少年時代、若き日の挫折、そして一大転機で権力者へ
第3章 どうやってロシア大統領になったのか?――最高権力者まで上り詰めた疾風怒涛の4年間
第4章 権力者となったプーチンをとりまく人々――政治を動かすオリガルヒ、愛すべき家族や親族
第5章 プーチンが築きあげた“盗人支配”と“監視”のシステムとは?――クレプトクラットが盗み、シロヴィキが見張る
第6章 プーチンの支配はいつまで続き、どう倒れるのか?――プーチンの哀れな末路と、ロシア再生への道
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第4章 権力者となったプーチンをとりまく人々――政治を動かすオリガルヒ、愛すべき家族や親族 より
政治にも影響を及ぼす「オリガルヒ」とは誰のことか?
――プーチン大統領の課題の1つは、ソ連崩壊の過程で跋扈(ばっこ)しエリツィンともつるんでいたオリガルヒにどう対処するかでした。改めて、オリガルヒとは何ですか?
以下、強調印字は筆者による。
オリガルヒは古代ギリシャ語で「少数者の支配」をいいます。プラトンやアリストテレスは、法に基づく貴族制(これも少数支配)から逸脱して、堕落した富裕層が自分たちの利益ばかり求める少数支配(寡頭制、かとうせい)を否定的にこう呼びました。
ロシアではペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)を掲げたゴルバチョフ時代(1985~91年)から急速な経済改革が進行。よい面はあっても、裏目に出て悪い面も拡大しました。経営状態の悪い国営企業を資本主義化や民営化を通じて手に入れ、ロシアでなじみのない株式・金融制度、資本洗浄(マネーロンダリング)、海外企業の設立(オフショア)といった手法を駆使し、私企業を膨脹させていく者が現れたのです。
社会主義を壊したロシアは、”資本主義の悪い部分”を競って導入した、という印象すら受けるほどです。彼ら大富豪がオリガルヒ(新興財閥)と呼ばれ、91~99年のエリツィン時代や2000年から今日に至るプーチン時代に続いていきました。
ただ大富豪というだけなら、米『フォーブス』誌や総合情報メディアのブルームバーグが発表する富豪リストを見れば話が早い。多くはアメリカ人で最近は中国人も増えましたが、23年初頭に300位以内のロシア人が17人(200位までに11人)。彼らがまだ生きている代表的なオリガルヒです。300位以内の日本人はユニクロ柳井正、キーエンス滝崎武光、ソフトバンク孫正義のわずか3氏のみ。ロシアのGDPは日本の半分以下(20年までは3分の1)ですから、いかに富の偏在が激しいかわかるでしょう。
エリツィンを96年にカネの力で強引に大統領再選させるのに貢献した「7人の銀行家」の筆頭ベレゾフスキーは”元祖オリガルヒ”の1人です。その後どうなったでしょうか。
自動車事業で大儲けしたベレゾフスキーは、90年代半ば、パートナーのアブラモヴィチとともにシブネフチ石油の支配権を獲得。90年代後半にはORT(ロシア公共テレビ)初代副会長となり、MNVK(TV6)や最大の実業紙『コメルサント』をはじめ有力メディアを支配して”メディア王”と呼ばれました。エリツィンの背後にいる”クレムリンのゴッドファーザー”といわれた時期もあります。
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政界に未練があったベレゾフスキーは、エリツィンとプーチンの統一党の結成にカネを出して選挙名簿に載せてもらい、下院議員になっています。
魑魅魍魎(ちみもうりょう)うごめくロシア政界です。ベレゾフスキーはプーチンが大統領になると反プーチンに転じましたが、逆に批判を浴びて00年7月に議員辞職。やがて彼に対する刑事捜査や訴訟が積み上がり、03年にはイギリスへ政治亡命しました。
ベレゾフスキーが支配するORTのチェチィン報道が気に入らず、とくに00年8月バレンツ海でまだ生きている乗組員とともに沈没した原潜クルスクの報道に激怒したプーチンは、彼から全メディアを奪うことに成功しました。
ベレゾフスキーは12年、「ロシア国民よ、言論の自由を奪い、民主主義的な価値をないがしろにしたことを許してくれ。私がプーチンを権力に就かせたことを告白する。この告白は言葉だけでなく行動で示す」とフェイスブックに書いています。
13年3月、彼はロンドン近郊の元妻宅の浴室で死んでいました。浴室は内側から施錠され、風呂に横たわっていましたが、首にはひもの跡がありました。やはり、FSB第5総局の反体制弾圧組織が殺害に関与した疑いがもたれています。