じじぃの「カオス・地球_104_プーチンは何をしたかったのか?大統領に就任」

権力者プーチンの若き日の1年間を追った貴重な映像/映画『プーチンより愛を込めて』予告編

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_vwp3tTzn74

プーチン氏がロシア大統領に就任


2000年5月7日 プーチン氏がロシア大統領に就任

2000年5月7日 時事ドットコム
プーチン氏がロシア大統領に就任
ロシアのプーチン氏が、エリツィン氏を継いで第2代大統領に就任した。
選挙を経た平和的な政権交代はロシア史上初めて。「強い国家」建設を掲げ、疲弊した国内経済の再建や国際的威信の回復に取り組んだ。
https://www.jiji.com/jc/daily?d=0507

プーチンは何をしたかったのか?

【目次】
はじめに
第1章 プーチンは、何をしたかったのか?――なぜクリミア併合、ウクライナ侵攻へ至ったか
第2章 プーチンとは、いったい何者なのか?――スパイを夢見た少年時代、若き日の挫折、そして一大転機で権力者へ

第3章 どうやってロシア大統領になったのか?――最高権力者まで上り詰めた疾風怒涛の4年間

第4章 権力者となったプーチンをとりまく人々――政治を動かすオリガルヒ、愛すべき家族や親族
第5章 プーチンが築きあげた“盗人支配”と“監視”のシステムとは?――クレプトクラットが盗み、シロヴィキが見張る
第6章 プーチンの支配はいつまで続き、どう倒れるのか?――プーチンの哀れな末路と、ロシア再生への道

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プーチンは何をしたかったのか?』

寺谷弘壬/著 アスコム 2023年発行
妻に恐怖の「バンパイア」と言われたプーチンの真実!ロシア研究60年の著者がQ&Aでズバリ回答!

第3章 どうやってロシア大統領になったのか?――最高権力者まで上り詰めた疾風怒涛の4年間 より

ツイてる男、プーチンは大統領就任初期に何をおこなった?

――99年8月首相となったプーチンは、大晦日にロシア大統領代行。00年3月に大統領。エリツィンは、もうヤル気を失っていた?

以下、強調印字は筆者による。
チェチィンで辣腕をふるうプーチンを見て、エリツィンはいたく喜びました。

12月31日には昼のテレビ演説で、後半の任期を残し大統領辞任を表明。「新世紀(ルビ・ミレニアム)は新しい大統領がよい」とプーチンを大統領代行に指名しました。

彼は「灰色のよどんだ全体主義的な過去から一歩だけ進めたと思う」と自らの歩みを控えめに振り返っています。エリツィン一家に対する絶え間ない汚職追放と自らの体力の限界から、とっくに辞めたがっていた、というのが本音でしょう。

エリツィンは「自分のセミヤー(家族)全員を、絶対に詮索も逮捕もしない」という念書をプーチンから取りました。対してプーチンは「エリツィンセミヤー全員の地位を法的・社会的に保証する」との公式書面に署名してエリツィンに渡しました。

さらにエリツィンは、00年6月の予定だった大統領選挙を3月23日に前倒ししました。
チェチィンで20万人もが虐殺されたおそれがあると知り、明るみに出ないうちに、またほかの候補者に準備の余裕を与えないように、というプーチンへの配慮です。

プーチンは新年の挨拶で後継に指名してくれたエリツィンへの返礼を述べ、「内外政策の性急な変化はない。言論の自由、良心の自由、報道の自由、そして個人の財産権など、市民社会の基本的規範はすべて国家が確実に守る」と誓いました。これにエリツィンは大喜び。プーチンを強く警戒していたゴルバチョフも、そこまで誓うなら、とプーチン支持にころっと転換してしまったのです。

代行として大統領職を引き継いだプーチンの初仕事は、エリツィン大統領のあらゆる過失を免責にする法令づくりでした。ただし、免責対象はエリツィン1人だけ。娘タチアーナら家族の汚職はすべて対象外で、エリツィンとの約束は反故にされたのです。1月3日、タチアーナは大統領顧問を解任されました。キックバックの1500万ドルをスイス銀行に隠し持つ”汚職の塊”のような女を遠ざけることは、プーチンの”身の潔白”を全ロシアに示す絶好のチャンスだったのです。

00年3月の大統領選は、当初の立候補者33人の3分の2が書類審査(たとえば推薦署名の水増しなど)で登録を認められず11人で争われ、プーチンは得票率53.44%でロシア大統領に選ばれました。次点は共産党委員長のジュガーノフです。

こうしてプーチンという男は、ロシア連邦のトップに上り詰めました。東独ドレスデンから帰って10年、モスクワに移ってわずか4年たらずという短期間の大出世でした。

プーチンの大統領選挙を支援した人のなかには、かっての上司サプチャークの姿もありました。プーチンは99年、親友からサプチャークの消息を聞いてすぐサプチャーク渡仏し、「汚職の検事局判断は取り消しにするから帰国しませんか」と説得。喜んだサプチャークは帰国後、00年2月からプーチンの応援演説行脚に加わってくれたのです。

ところが、2月20日、彼はカリーニングラードで演説中に急死してしまいます。死因は心臓発作とされましたが、2人の医療専門家の調査けっかと矛盾。5月には計画殺人の疑いで刑事捜査が始まりましたが、3ヵ月ほどで終了し、結果は公表されませんでした。
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プーチン大統領(任期4年)の1期と2期、00~08年にかけてロシアのGDPは、年平均7%という高い伸びを示しました。これは首相のカシャノフが01年に個人の所得税制を改革し、一律13%の税率を導入したことがきっかけの1つ。はびこっていた脱税が減り、税収が25%も増えたのです。その後の高い成長は石油価格が高騰しつづけ、外国資本がどんどん流入してきたからです。この間プーチンは非常にツイていました。

08年、メドヴェージェフ大統領と交代したとたんリーマンショックが起こりました。旧社会主義者は影響が少ないといわれましたが、やはりデカップリング(連動)は避けられず経済は悪化。回復しはじめたのは12年ごろです。これまたツキがあったようです。

07年にはエリツィンが亡くなっています。プーチンは、モスクワ川そばの救世主ハリストス大聖堂で、盛大な国葬を営み、死亡した日を「国民服喪の日」と宣言したのでした。