始皇帝の永遠への野望がつまった地下帝国
地下世界から現れたおびただしい兵士たち!始皇帝陵「兵馬俑」の等身大像の謎
2016/10/11 サライ
中国古代の皇帝たちは不老不死を願い、この世での生が終われば第二の生を地下で過ごそうとした。そこで地上の宮殿を原寸大で地下の墓に再現。その結果、墓は巨大になるばかりとなった。
こうした「永遠に生きたい」という欲望は、約3700年前に栄えた殷(いん)の時代に始まる。当時の王墓からは、殉死(じゅんし)して葬むられた多くの殉葬者が確認されている。なかには子供たちもおり、いずれも生前の王様に仕えた者だ。
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『眠れなくなるほど面白い 図解 始皇帝の話』
渡邉義浩/監修 日本文芸社 2022年発行
紀元前246年、13歳で即位し、史上初めて中国を統一して500年の争乱の歴史に終止符を打った秦の始皇帝。
歴史に残るその戦いと数々の偉大な功績、また謎に満ちた生涯、始皇帝を支えた多くの忠臣を、最新研究をもとに図解、イラストを交えてわかりやすく解説する。
Part1 始皇帝の何がすごいの? より
始皇帝を守る巨大な墓・始皇帝陵
1974年に、始皇帝の絶大な権力の片鱗が発見されました。それは発掘された始皇帝陵(りょう)です。紀元前3世紀頃につくられた巨大な墓で、始皇帝が13歳で即位した直後から造営がはじまり、完成したのは49歳で亡くなった前後だとされています。
始皇帝陵は、現代の墓とは比べものにならないくらい広大で、周囲は2000m、高さは76mもあります。
盗掘を防ぐ罠(わな)が仕掛けられていたり、副葬品が埋葬されていたりする点は、古代エジプトのピラミッドなどと変わりません。
しかし始皇帝陵には、生前と変わらない生活ができるようにと、墓室には役人の席が設けられ、戦車や馬や兵士などの兵馬俑(へいばよう、俑は人形の意味)も一緒に埋葬されていました。
驚いたのは、兵馬俑の数の多さです。約8000体が、始皇帝のお墓を守るように配置されていました。これらの兵士たちは、死後も始皇帝を守っていたのです。
20世紀最大の発見の1つといわれる始皇帝陵ですが、いまだに発掘調査中で、その全貌は明らかになっていません。
また、司馬遷の書いた『史記』では、始皇帝陵には水銀の川が流れているなどの記載もあり、まだまだ多くの謎を秘めています。
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どうでもいい、じじぃの日記。
殉死とは、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが死ぬ(死に殉じる)こと。
ネットで「殉死」をキーに検索してみた。
考古学者レオナード・ウーリーが、現代のイラクにあたる古代都市バビロンの南東225キロで、古代都市ウルの王家の墓を発見した。4000年以上前から無傷のまま残されていたメソポタミアの王墓は、世界最古の物語『ギルガメシュ叙事詩』を残した古代シュメール人が作ったものだった。
墓の発見は大きな話題となった。納められていた財宝の量と技術の高さに驚かされただけでなく、古代シュメール人が残酷な埋葬儀式を行っていたことが明らかになったためだ。精巧な細工が施された宝飾品や楽器といった副葬品のほかに、墓には死んだ王族の遺骨とともに、大勢の従者や兵士が「殉葬者」として殉死させられ、埋葬されていた。
殉葬された人々は、埋葬の前に自ら毒を飲んだと考えられるが、なかには外傷の痕がある遺骨もあった。発掘が終わる頃には、ウーリーは、古代ウルの王と女王の残酷な埋葬儀式を詳しく説明できるだけの十分な証拠を集めていた。
中国・秦の始皇帝による中国統一までを春秋・戦国時代という。
始皇帝よりも300年ほど前 春秋・戦国時代の景公(けいこう)の墓では、166もの殉葬者の木棺が墓室の上に並べられていた。
始皇帝の場合は、自分に従った兵士と馬を殉葬することはなく、代替物として土を焼いて作った等身大の兵馬俑を埋めた。その数は8000体と推定される。
都市伝説では、始皇帝の兵馬俑は生前、彼に仕えた実在の軍隊・人物を生贄にし、死体から型を取って作ったという説がある。
(https://sekaiiti-sangokushi.com/kingdam/2032/)
日本では、
明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御された。
陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で大喪の礼が執り行われた9月13日、乃木希典大将、静子夫人は明治天皇に殉じて自刃を遂げた。