The First Emperor of China
Clay Figure Soldiers in Qinshihuang's Tomb
始皇帝
ウィキペディア(Wikipedia) より
始皇帝(紀元前259年2月18日 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は贏(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)。現代中国語では、秦始皇帝、あるいは秦始皇と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。統一後、始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行った。
万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの大事業を行った。また、法による統治を敷き、自身の政治を批判する学者や本を始末した焚書坑儒を実行したことでも知られる。
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『世界史大図鑑』
レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行
もし秦王が天下を志せば、天下の者はみなその虜(とりこ)になるだろう 始皇帝が中国を統一する(紀元前221年)
秦始皇帝 より
中国最初の皇帝である贏政(えいせい、のちに秦始皇帝とそて知られる)(紀元前259年~210年)は中国史上で屈指の重要な人物であり、この国を統一して、その後2,000年近くつづいた皇帝支配の時代をもたらした。
残忍な独裁者だったが、革新的かつ精力的で活気に満ちた人物でもあり、1日1時間しか睡眠を必要とせず、処理する紙の重さで自分自身に1日の仕事量を課していると噂されていた。
また、定期的に街の通りを変装して歩いて民衆を監視し、帝国内を5度にわたって巡行した。命を狙われているのではないかと偏執的なまでに怯えていて(少なくとも1度、暗殺未遂に遭っている)、取りつかれたように不死を求め、永遠に生きつづけられるよう、魔法の材料を探させたり、不老不死の霊薬を煎じることができるとされる神秘主義者を支援したりした。皮肉なことに、始皇帝が50歳で死んだのは、寿命を延ばそうと試みて、有毒な水銀をもとにした霊薬を飲んだことが原因である可能性がある。
偉業 より
秦始皇帝の偉業のなかに野心的な土木事業の数々があるが、大きな人的損害をともない、多くがその過程で命を落とした。始皇帝は万里の長城の現存する部分を最初に造った人物だと従来みなされている。遊牧民族の侵入を防ごうと戦国時代に建てられた古い壁の部分部分をつなぎ、それに1,000キロメートル以上の新しい壁を付けたした。その他の事業としては、霊渠(れいきょ)の運河を建設して湘江と漓江を結び、軍事物質を中国北部から南部へ輸送できるようにしたことや、咸陽から万里の長城もでつづく800キロメートルもの「直道」など軍事用道路を建設したことがあげられる。
始皇帝の最もよく知られた事業は、手のこんだ自分自身の陵墓であり、建造するのに38年間と70万人以上の労働者を要した。これは巨大なピラミッド状のものに土をかぶせて広大な塚にしたもので、高さは何十メートルにも、幅は何百メートルにも及ぶ。中には墓があり、そこには始皇帝が慈しんだ帝国が小型模型で再現されていて、水銀でできた川と海まで備わっている。墓のまわりには大きな穴がいくつもあり、そこには何千体にも及ぶ等身大の粘土製の兵士、文官、芸人がところせましと並んでいる。これらはすべて、皇帝の死後の生に仕えることを目的としたものだ。墓の建造に従事した労働者は役目を果たすと殺害され、陵の場所と中身は彼らとともに秘密のまま葬られて、この墓は2,000年以上発見されなかった。
始皇帝が権力をほしいままにしていたにもかかわらず、秦王朝は短命に終わった。農民に容赦なく金銭を供出するよう強要したり、長年の強制労働を課したりしたことから根深い恨みを買い、それが農民の反発を招いた。また、野心的にすぎる土木事業のせいで財政は破綻していた。これらが組み合わさって、皇帝と主要な宰相たち(筆頭の丞相は李斯)が率いる入念に秩序づけられた政権を脅かした。
皇帝が紀元前210年に没すると、末の息子胡亥が、助言者でかつて教えを受けた趙高の支援を得て王座を奪い、李斯を追放してのちに処刑した。胡亥はわずか3年権力の座にいたのちに自殺に追いこまれ、後継者となった子嬰は、みずからの権威が非常に限定されていたことから、皇帝ではなく王の称号を用いた。