じじぃの「兵馬俑・水銀の海・始皇帝が溺れた死の霊薬!不死の講義」

晩年の始皇帝は暴君だった?

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Yvv1ibm372s

兵馬俑墓所であり不死のシナリオの一部

兵馬俑復元図がネット上で大人気、2千年前の人ってこんな顔だったのね!

2021年4月27日 人民網日本語版 
「世界8番目の不思議」といわれる秦の始皇帝兵馬俑は、栄華極まる中国古代文明の輝かしい代名詞となっている。
兵馬俑のモデルとなった当時の人々は一体どんな顔をしていたのか?」と好奇心を抱く人は数多い。あるブロガーがこのほど、秦始皇帝陵兵馬俑の「リアル人間動態復元図」を制作した。2千年の歴史を越えて蘇った風貌は、非常にリアルで、私たちが良く知る友人や身内のように、微笑みながら私たちを見つめており、これまでずっと一緒にいたような気持すら抱いてしまうほどだ。
http://j.people.com.cn/n3/2021/0427/c94638-9844190.html

養老孟司さんに聞きました「“死”は怖くないですか?」

2020年9月9日 ハフポスト
●死が怖いなんて考えても仕方がない
━━子どもの頃、死んだら自分にとっての宇宙や世界はすべて終わりだと思うと、恐ろしく感じることがありました。生死への、そうした畏怖の念をいつの間にか忘れてしまったような気がします。
死ぬことなんて考えてもわからないでしょ。僕はコロナが嫌なのは、入院するのが嫌だから。死というのは、意識がなくなって醒めないだけなんだから、今夜寝るときと同じ。一度寝てしまったら、意識で起きてるわけじゃないんで。
僕は死を怖いと思ったことはないのでよくわからないですね。そんなことは考えても仕方がないです。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story-yoro-takeshi_jp_5f51a76ec5b62b3add3e43

ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』

ティーヴン・ケイヴ/著、柴田裕之/訳 日経BP 2021年発行

【目次】

第1部 「生き残り」シナリオ ーStaying Alive―

第2部 「蘇り」シナリオ ーResurrection―
第3部 「霊魂」シナリオ ーSoul―
第4部 「遺産(レガシー)」シナリオ ーLegacy-

第2章 「万里の長城」の究極目標――文明と不老不死の霊薬 より

水銀の海――始皇帝が溺れた「死の霊薬」

始皇帝は、不死は望ましいものなのかどうかという疑念に悩まされることはなかった。天かを完全に支配するという務めは、いくらでも長く幸福に続けられそうに思えたからだ。
先程は、始皇帝が石弓を手にして海辺に立ち、自分と永遠の生との間に立ちはだかる海獣を倒す機会を窺っているところまで、話を進めた。だがかれは、船乗りたちが捕まえた数匹のサメに矢を浴びせることぐらいしかできなかった。海獣はうまく逃げおおせたようだった。そして、始皇帝は内陸の都へと戻る途中、紀元前210年にわずか49歳で重い病気に倒れて亡くなった。
だが、ひどい味の強壮剤を飲み干したり、本物の霊薬を探すために遠征隊を派遣したりする間に、始皇帝は代替案の実現にも精を出していた。ほとんどが彼の過酷な法制度も違反した者から成る、70万という驚異的な数の労働者が、皇帝の墓となる陵墓の建設に長年にわたり従事していた。当時の記録によれば、地下に帝国全土をかたどった青銅製の複製が作られ、流れる水銀によって中国の大河が再現され、それが水銀の海へと絶え間なく注ぎ込み、魔法のような仕組みによってそれが果てしなく繰り返されていたという。その上方には、天上の星座が再現され、宇宙の支配者たる皇帝の地位を象徴していた。そして、そのすべてが、近寄る者は誰でも自動的に射殺する石弓で守られていた。
始皇帝の後継者――若い息子で、その統治は短期間しか続かなかった――は、父の側室で男子を産まなかった者を、すべて殺して父と共に埋葬するように命じた。
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始皇帝は、伝統に従って自分の墓を建造したのだが、その規模は前代未聞だった。始皇帝が、この複数の帝国で生き続けられると信じていたかどうかは、何とも言い難い。道教の慣習に沿って、何よりもまず身体的な死を避けるために懸命の努力をしたことを、本人の言行が明白に示している。だが、「生き残り」の道をたどっている者なら誰にとっても、代替案を準備するのは当然のことであり、古代エジプトの場合で見たように、複数の不死のシナリオが共存している文化は、けっして知られていないわけではない。中国の伝承によれば、死者の霊がどうなるかは、適切な埋葬と儀礼を行なうかどうかに大きく依存するという。始皇帝は、もしあの世に行くのなら、何が何でも、自分が慣れ親しんだ様式で行くつもりだったのだろう。
この巨大墳墓の大仰な説明は、何世紀にもわたって作り話だと考えられていた。墓が隠されている小山は地元の人々によく知られていたが、迷信と、恐ろしい罠にまつわる伝説のせいで、誰も近づかなかった。やがて1974年に、小山自体からは1.6キロメートルほどの場所で、数人の農民が井戸を掘り始めた。すると意外にも、地下の穴を掘り当てた。そして、中から秦時代の兵士の像が出てきた。
その像は陶製で、これまでのところ、さらに8000体が見つかっている。すべて実物大で、精巧に成型されており、それぞれが実物のモデル同様個性的だ。今では兵馬俑(へいばよう)として知られているこれらの像は、世間をあっと言わせるような20世紀屈指の大発見で、世界7不思議と肩を並べるものとして、広く認められている。
だが、なおさら驚くべきなのは、この大軍団が、巨大な陵墓のほんの一部、それも、当時の記録が、他の宝物と比べれば触れるに値しないとさえ見なしていた、ごく些末な部分でしかない点だ。

陵墓は約57平方キロメートルという途方もない広さに及び、陶製の役人、軽業師、戦車、さらには動物たちが納まった多数の坑がある。

兵士たちは、墓の外壁への人口を警護している。この外壁は、6.4キロメートル近くある。発掘は今も進行中で、今後も何十年にもわたって、宝物が掘り出されることが見込まれる。墓の本体は、今のところ開かれていない。中身がまだ適切に保存できぬ恐れと、ことによると、石弓が自動的に作動する恐れもあるためだ。だが、土壌の予備スキャンから、水銀濃度が異常に高いことが明らかになっており、水銀の海という古代の記述が正しいことが窺える。
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不老不死の霊薬の探索が、確固たる科学的基盤を持つまでには、その後2000年を要することになる。私たちは今や、史上初めて、老化と病気を打ち負かす見通しが立つところまで来たと考えている者は多い。無期限に生き永らえる可能性は、かってないほど高く見える。
そのような変化をもたらした張本人は、その過程で、ノーベル賞を2度も受賞した経歴を犠牲にしたものの、健康に執着する私たちの時代の形成に大いに貢献した。今度は彼に目を向けることにしよう。