じじぃの「仏教・霊魂の存在・何によって証明できるのか?不死の講義」

「宇宙船の中」と「座禅」、油井亀美也×南直哉【The Conversation】(第2回)

動画 YouTube
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座禅

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ケンブリッジ大学・人気哲学者の「不死」の講義』

ティーヴン・ケイヴ/著、柴田裕之/訳 日経BP 2021年発行

【目次】

第1部 「生き残り」シナリオ ーStaying Alive―
第2部 「蘇り」シナリオ ーResurrection―

第3部 「霊魂」シナリオ ーSoul―

第4部 「遺産(レガシー)」シナリオ ーLegacy-

第7章 「生まれ変わり」と「科学」――霊魂の消失 より

霊魂と科学――霊魂の住み処は心か身体か?

証拠にまつわる疑問は、「霊魂シナリオ」で中心的な役割を果たす。「蘇りシナリオ」を信じる人は、神の奇跡的な行為を期待する。したがって、不死への希望を正当化しうるものは、神への信仰だけだ。
だが、霊魂に対する信仰は、常にそれとは異なるものだった。霊魂の存在は、理性で分析できる仮説であり、古代ギリシャの論理学者と古代インドの論理学者の両方が、霊魂は数多くの経験的現象や存在に関する難問の最善の説明になると考えていた。だから、蘇りに期待をかけていたイエス・キリストが十字架から自分の神に大声で叫んだのに対して、自分の真の自己は不滅で間もなく解放されようとしていることを理性的に証明したソクラテスは、完全に落ち着き払って毒杯を呷(あお)ることができた。

だが、霊魂の存在はいったい何によって証明されるというのか?

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世界的に有名な神経学者のアントニオ・ダマシオは、空腹感を例に取って、これを次のように説明している。「食後数時間すると血糖値が下がり、視床下部ニューロンがその変化に気づく。それに関連した生得的なパターンが生じ、脳は修正の可能性が高まるように身体的状態を変える。するとあなたは空腹を覚え、その空腹感を止めるための行動を始める」。
たとえば、何も考えずにもう1枚、クッキーに手を伸ばすなど、あなたが空腹感を止めるために取る行動のうちには無意識のものもあるかもしれないし、メニューのどの料理を選ぶかを決めたり、料理本のレシピに従ったりといった、意識的なものもあるかもしれない。だが、そうした心的作用はみなそれ自体が、血糖値の低下で始まった、より大きな生化学的活動の過程の一部にすぎない。
血糖値が下がり過ぎたらどうなるかを見ると、精神的なものと身体的なものの結合が、なおいっそう明白になる。まず、不安ンを感じ、腹を立てやすくなり、集中力が落ちる――少なくとも、食べ物に関連していないことについては。
糖尿病患者なら知っているように、血糖値が突然大きく下がると、情緒が著しく安定を欠き、喧嘩腰になり、混乱する。一方、空腹が続くと、やがてやる気を失い、落ち込む。これはみな、人格という、霊魂の領域であるはずの部分の根本的な変化であり、脳と身体の中の化学的変化が引き起こしたものだ。精神的なものと物理的なものの古来の区別は、現代科学の厳重な検査の下で崩れ去り、思考や感情は生物学的作用にしっかりと根差しているように見えてくる。

霊魂の消失

ブッダは、宗教の教義は証拠に照らして吟味すべきである、と言った。そして、私たちはそうしてきた。霊魂の存在が非常に妥当な仮説であり、生と心がほとんど理解されていなかった時代があった。だが、その時代は過ぎ去り、霊魂仮説はその座を奪われた。それでもなお、これほど大勢の人が霊魂の存在を信じ続けるのは、それが道理に適った主張という資格を持っているからではなく、不死のシナリオとして満足感を提供するからにほかならない。
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ヒンドゥー教と仏教には、個人の心は身体なしには持続できないという認識の底流がある。過去の罪業に対して罰せられるほど丈夫な霊魂を必要とする、生まれ変わりの説の先には、より極端なものの手掛かりがある。
たとえば、涅槃は、文字どおりには「消滅させること」あるいは「吹き消すこと」を意味する。だが、蝋燭のように吹き消されるものというのは何なのか? 現生の欲望だと言う仏教徒もいる。だが、さらに踏み込み、消滅させるのは自己だと信じている者もいる。ヒンドゥー教と仏教の苦行の伝統に属する人の一部にとっては、現世の苦しみの根源は、単にこの世にいることだけでなく、存在すること自体だ。したがって、苦しみから解放されるには、個人であることを完全にやめねばならない。あるいは、ヒンドゥー教徒に言わせれば、宇宙全体の根源であるブラフマンと1つになることだ。

霊魂は、ぼろぼろの古い服のように身体を脱ぎ捨てた真の自己のはずだった。ところが、すでに見たように、身体と脳以外に真の自己は存在しない。

さらに言えば、第1の不死のシナリオである「生き残りのシナリオ」を探究したときに、これまたすでに見たように、人の身体と脳には、永遠に存在する見通しはない。そして、「蘇りのシナリオ」の考察から、いったん死んだ身体を再び組み立てたら、それは本人ではなく、ただの複製に命を与えたものにすぎぬことがわかった。だから、「霊魂のシナリオ」が破綻すると、人が現在の在り方のまま本人として永遠に生き続けるという望みも奪われる。
後に残されるのは人の本質的に異なるさまざまな部分であり、それがてんでに散らばっていくかもしれない。死という消散を生き延びる、本人の断片、あるいはこだまだ。これは、何かしらの宇宙の霊と再び1つになる。名もなきエネルギー、あるいはことによると、人が他者の心に残した記憶を意味するのかもしれない。
それを依然として「霊魂」と呼ぶ人もいるかもしれないが、それならば、それは非物質的ではあっても、もう意識のある人を意味しなくなっており、代わりに、この世界にその人が残した足跡のようなものを意味する。この地点まで到達したときには、私たちはすでに「霊魂のシナリオ」を離れて、不死への第4の道に入っていることになる。すなわち、「遺産(レガシー)のシナリオ」だ。