じじぃの「中国古代・漢・項羽と劉邦・何がすごいの?始皇帝の話」

【時代錯誤】チャイナと呼ばれたくない中国の「中華思想

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=H_3RiRqi-X8

秦・漢 全図


世界史用語解説 漢(前漢

秦に続く統一王朝で、中国で最初の長期安定した王朝。前202年、劉邦(高祖)が初代皇帝となり郡国制を採用。
漢はその後、呉楚七国の乱を鎮圧して基盤を整え、前1世紀の後半の武帝の時に実質的な郡県制による中央集権的な支配権を確立した。武帝は盛んに匈奴などに対する征服活動を行い、周辺に帝国支配を及ぼした。しかし次第に宦官と外戚が実権をふるうようになり、8年に外戚王莽に帝位を奪われ滅亡した。25年、劉秀が復興させたのを後漢というのに対し、こちらを前漢という。

農民出身の劉邦が、前202年、秦に代わって樹立した中国の統一王朝。都は渭水盆地の長安劉邦は皇帝となり漢帝国を創始(廟号を高祖という)、直轄領には郡県をおくとともに功臣を諸侯として各国に封じて封建制を併用する、いわゆる郡国制をとり支配権を安定させた。都は洛陽から関中にもどり、前200年2月に秦の咸陽の地に新たに長安を造営し遷都(完成は前190年)した。
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-085.html

地球ドラマチック 「玉(ぎょく)の衣をまとった王~古代中国の栄枯盛衰~」

2016年2月6日 NHK
【語り】渡辺徹 2015年 イギリス製作

およそ2000年前、世界には2つの巨大な帝国が存在しました。西のローマ帝国と東の漢王朝です。
中国の礎を築いた漢王朝は紀元220年に滅亡。宮殿は崩れ落ち宝物は略奪され、その華やかな歴史は長い間闇に閉ざされました。
しかし、皇帝や王の壮大な墳墓が発掘されたことで埋もれていた歴史に光が当たるようになりました。
西安はかつて長安と呼ばれ、中国の古の都として栄えた街です。現在は兵馬俑で有名です。初めて中国を統一した秦の始皇帝の陵墓で発見されました。
しかし、西安にある皇帝の陵墓はこれだけではありません。漢王朝6代目の皇帝・景帝の陵墓です。400年以上にわたって続いた漢王朝は中国という国の礎を揺るぎないものにした王朝です。
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漢王朝は幼い皇帝の擁立や反乱が続き、滅亡への道を歩みました。4世紀以上にわたって続いた漢王朝は紀元220年に滅亡しました。
しかし、漢が残したものは墓の中の宝物だけでなありません。計り知れない宝を中国に残したのです。
作家ジャナサン・クレメンツ、
「漢の最大の偉業は400年以上の治世によって、さまざまなものを均一化したことです。異なった文化を持つ王国や地方を1つに束ね、人々を我々は中国人だという意識を植え付けたんです」
現在、中国人の多くが自らを漢民族だとみなしています。そして自らの言語を漢語、文字を漢字と呼んでいます。現代の中国人が自らのルーツを考える時に思い浮かべるものこそ漢王朝なのです。
https://tvmatome.net/archives/3144

『眠れなくなるほど面白い 図解 始皇帝の話』

渡邉義浩/監修 日本文芸社 2022年発行
紀元前246年、13歳で即位し、史上初めて中国を統一して500年の争乱の歴史に終止符を打った秦の始皇帝
歴史に残るその戦いと数々の偉大な功績、また謎に満ちた生涯、始皇帝を支えた多くの忠臣を、最新研究をもとに図解、イラストを交えてわかりやすく解説する。

Part5 統一事業と始皇帝の死 より

強大な礎で生まれた項羽と劉邦

●秦を滅ぼし漢を建てた英雄が登場

陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱と同じ頃、中国各地で不満を持つ者が奮起しました。とくに、陳勝呉広のふるさとの楚(そ)では、次々に挙兵。氏族制へ戻そうという動きが盛んでした。

そんな中で登場したのが、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)です。項羽は楚の王族出身で、大将軍・項燕(こうえん)の孫に当たります。叔父の項梁(こうりょう)が率いる反秦軍に加わり、9000人の兵とともに秦を攻めました。
この軍に、後から合流したのが劉邦です。項羽は残虐な性格で、自らを「西楚の覇王」と名乗りました。統率力と人望が乏しかったと伝わります。

一方の劉邦は、農民出身の役人で、あまり任務に真面目に取り組まない、のんきな性格だったといいます。しかし、心優しく信頼も厚い人物だったため、小さな反乱軍のリーダーに推薦され、張良(ちょうりょう)をはじめとする仲間を増やして、軍を大きくしていきました。

楚王の孫の懐王(かいおう)から、「先に関中(咸陽一帯)に入った者を、その土地の次の王にする」と言われたため、項羽軍と劉邦軍は、我先にと秦を攻め入ります。

40万の大軍を率いた項羽軍は秦軍と戦いながら進みましたが、10万の劉邦軍は無駄な戦いを避けて関中を目指したため、先にたどりついた劉邦が秦王を降伏させました。

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どうでもいい、じじぃの日記。

農民出身の劉邦は、秦末の動乱に挙兵し前206年に秦を滅ぼした。
さらに項羽との争いに勝ち、前202年に皇帝となり、漢王朝の始祖(高祖)となった。

少し古い話だが、2016年 NHK地球ドラマチック』で「玉(ぎょく)の衣をまとった王~古代中国の栄枯盛衰~」を観た。

古代中国の皇帝が死んだときに、身に付けていた衣が玉(ぎょく)だ。玉はヒスイのことだそうだ。
マヤでも、日本でもヒスイ(勾玉)は高貴な石とされた。

「現在、中国人の多くが自らを漢民族だとみなしています。そして自らの言語を漢語、文字を漢字と呼んでいます。現代の中国人が自らのルーツを考える時に思い浮かべるものこそ漢王朝なのです」

習近平主席は、「中華民族の偉大な復興」という大目標を掲げているが、ここで言われる「中華民族」とはいったい何を指しているのか。

もともとは、中華民族漢民族のことを指していたが、最近では新疆ウイグル族チベット族も含めた「多民族国家」という言い方に変えたようだ。