じじぃの「神話伝説_53_始皇帝」

NHKスペシャル 「中国文明の謎」 2012年10月14日
【出演】中井貴一
四大文明」の中でも、ただ1つ中国文明だけは、4000年以上にわたってほぼ同じ地域で同じ文明を維持して繁栄を続けてきた。その謎を、王朝の誕生から始皇帝の統一までの文明揺籃の時代に探るシリーズ。
●第3集 始皇帝 “中華”帝国への野望
紀元前770年に始まる春秋戦国時代は、群雄が割拠した激しい戦乱の時代だった。
その戦乱を終わらせ、今の「中国」の原型を築いたのが「秦」の始皇帝である。
最近の研究で、「秦」はさまざまな勢力を支配するにあたって、「夏」王朝の権威を巧みに利用していたことがわかってきた。
http://www.nhk.or.jp/special/china-civilization/
秦の始皇帝はなぜ一代で滅んだか?武田鉄矢・今朝の三枚おろし 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=KbQW1T9GGtc
秦の始皇帝

『中国人物伝春秋戦国‐秦・漢 1 乱世から大帝国へ』 井波律子/著 岩波書店 2014年発行
狂気の不滅願望 始皇帝 (一部抜粋しています)
紀元前221年、秦王政(始皇帝。前259 - 前210)は、550年におよんだ春秋戦国の分裂国家の時代に終止符を打ち、中国全土を統一、空前の大帝国秦王朝を立てた。13歳で父の荘襄王の後を継ぎ、秦王の位についてから、27年目のことである。
この偉大なる覇者秦王政の出目には問題があり、荘襄王の実子ではなく、そのパトロン呂不葦の子である可能性がきわめて高い。大商人だった呂不葦は商品の価値を見抜くことにかけては、抜群のセンスをもっていた。その呂不葦のアンテナに、人質として趙の国に送り込まれていた秦の庶出の公子、子楚のちの荘襄王が引っかかったのである。
      ・
天下を支配した秦王政が最初に行なったのは、最高権力者としてのみずからの称号を決定することだった。
秦に先立つ統一王朝周の天子は「王」と称したが、春秋戦国の乱世を経て、諸侯もすべて「王」と称したため価値が下落し、とても使いものにならない。そこで秦王政は、「皇帝」という称号を採用したのだった。ちなみに、皇は天帝(宇宙の支配者)の意であり、帝は伝説の5人の聖王「五帝」からとったものである。
同時に、秦王政は謚(おくりな 死者に対して、その生前の行いに応じて付けられる呼び名)の制度を廃止し、みずから「始皇帝」と名のり、以後の皇帝を2世皇帝、3世皇帝と呼ぶよう臣下に命じた。「子が父の行いを論じ、臣が君の行いを論じ」て、謚を付けることなど不敬千万というのが、謚号(しごう)廃止の理由にほかならない。
さらにこのとき、皇帝専用の自称を「朕(ちん)」とすることも、あわせて定められた。こうした称号や制度を創設した秦王政の狙いは、むろん、みずからを並の人間とは劃然と隔たった高みに位置づけようとするところにあった。
こうして「始皇帝」が誕生したわけだが、それにしても、自分を天帝になぞらえ、すべての「始まり」に位置づけるのだから、なんとも恐るべき自負心のつよさである。この自負心の裏側には、あるいは「父親殺し」によってみずから血の継続を断ち切り、自立をバ仕遂げた秦王政にとって、暗黙のうちに、孤立した自己存在こそ始源であり、すべてが自分から始まる、という意識があったのかもしれない。
それはさておき、名実ともに世界の中心となった始皇帝は、時を移さず、天下統一を実体化するための具体的な作業にとりかかった。
まず中国全土を36の郡に分け、各郡に皇帝の任命した官使を覇権して行政を担当させ、漢力の集中化をはかると同時に、度量衡、貨幣、車騎(車の両輪の間の幅)。文字を統一するなど、社会、経済、文化の制度もまた整備・統合した。
この強力な求心的政策によって、7国が並立していた戦国時代の分裂状態はもののみごとに克服され、ここにすべてが中央権力、つまりは皇帝に一極集中する大帝国が出現したのである。桁はずれの合理主義者にして機能主義者の始皇帝でなければ、こんな荒技を短期間で成し遂げることは、とても不可能だったにちがいない。