じじぃの「人の死にざま_1490_張騫(漢王朝)」

Diplomatic History of Ancient China 張騫通西域 動画 YouTube
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Awesome Dude of the Week - 張騫 動画 YouTube
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張騫 ウィキペディアWikipedia)』より
張 騫(ちょう けん、? - 紀元前114年)は中国前漢代の政治家、外交官。字は子文。漢中郡(顔師古注によると成固)の出身。武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらした。

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『中国人物伝春秋戦国‐秦・漢 1 乱世から大帝国へ』 井波律子/著 岩波書店 2014年発行
絶頂期の専制者 漢の武帝 (一部抜粋しています)
漢王朝第7代目皇帝の武帝(劉徹。前156 - 前87)は、漢王朝が成立してから約60年後の即位した。
漢王朝では、初代皇帝高祖劉邦(りゅうほう)の没後、妻の呂后(りょこう)が実験を把握し、政治的には混乱したものの、秦末の戦乱で荒廃した社会状況はしだいに回復した。呂后の没後、即位した文帝(武帝の祖父)と景帝(武帝の父)は手がたく政策をおしすすめ、いっそう社会は繁栄した。とりわけ景帝は紀元前154年、地方の領地を支配する皇室の一族の諸王がおこした「呉楚七国の乱」を制圧、これによって皇帝が全国を直接支配する中央集権体制を固めた。ちなみに高祖は急激に中央集権体制を断行した秦の始皇帝の失敗に鑑み、諸王に各地を支配させる封建制を復活させたが、漢王朝は数十年かけて、ゆるやかに封建制から中央集権体制へと切り替えたのである。
武帝は紀元前141年、景帝が死去すると、16歳で即位、上昇気流に乗った時代のただなかに登場した。景帝の九男だった武帝は、けっしてすんなり即位したわけではなく、その裏には、叔母の館陶長公主。母の王婦人などの強力な後押しがあった。
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武帝の西域への関心も、もともとは匈奴征伐に対する意欲とともに生じたものである。西域のかなたに、匈奴に駆逐された遊牧民族月氏国(げっしこく)が存在することを知った武帝は、この月氏国と同盟して、匈奴を挟み撃ちにする計画を立て、使者を募った。これに応じたのが張騫(ちょうけん)である。武帝が即位してまもない建元年間初め、張騫は100人あまりの舞台を率い、月氏国めざして出発した。しかし、事、志と反して、張騫は匈奴に捕えられて、10年以上も抑留されてしまう。ようやく隙を見て脱走し、月氏国へと向かったが、月氏国はすでにさらに西へと移り、大月氏国を建設していた。この情報を得た張騫はなんとか大月氏国にたどりついたものの、肥沃な土地に安住した大月氏国はすでに匈奴への怨みを忘れはてており、漢と同盟する気などない。
かくして、張騫は大月氏国の支配下にある大夏国(だいかこく)をはじめとする西域諸国を探訪したのち、天山南路を経て、帰国の途につく。その途中、またも匈奴に捕えられ、1年余り抑留されたが、おりを見て脱走し、ようやく長安に帰りついた。出発してからすでに十数年の歳月が流れ、彼とともに帰国した従者はただ1人だったが、匈奴族出身の妻も同行していたという。
月氏国との同盟という使命は果たされなかったけれども、劇的な西域探検の旅を経験した張騫の話は、武帝を大いに刺激した。かくして以後、武帝はしきりに探検隊を西域に派遣し、東西交通は年を追って盛んになった。この結果、西域の珍奇な食物、器物等々が中国に輸入されるようになった。こうした西域諸国との交流は、匈奴との闘いのような排除的かつ支配的な欲望によるものではなく、武帝にとって異文化受容の契機となったといえよう。