じじぃの「人の死にざま_1456_韓信(漢王朝)」

三国志SAGA】vs韓信(背水) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OioFANz17nE
韓信、黥布、彭越の誅殺は劉邦自身の考えで実行された命令なんでしょうか? 2014/9/6 Yahoo!知恵袋
回答
韓信たちの粛清は、偶然というわけでなく必然的な出来事だったと思われます。
ということで、個人的には韓信たちの粛清は、劉邦にとって既定路線であり、劉邦の考えによって行われたものだと考えています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12135195937
韓信 ウィキペディアWikipedia)より
韓 信(かん しん、? - 紀元前196年)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。
なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される。
韓信の生涯を扱ったものとして、中国のテレビドラマ『項羽と劉邦・背水の陣』(原題:淮陰侯韓信、1991年)がある。また、中国映画『項羽と劉邦 鴻門の会』(原題:王的盛宴、2012年)でもメインキャラクターの1人として登場する。

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『中国 かなりこわい闇の歴史---学校じゃここまで教えない!』 歴史の謎を探る会 KAWADE夢文庫 2011年発行
韓信――なぜ劉邦によって、謀殺されたのか? (一部抜粋しています)
劉邦項羽を破って、漢王朝を開いた。漢王朝は、西の古代ローマと比較されるくらい、長きにわたってつづいた東の大帝国に成長するが、けっしてそのあいだ、平和だったわけではない。内部の戦い、殺戮はたえまなくつづいていた。その漢王朝内部の最初の殺戮劇が、韓信、彭越、黥布らの誅殺である。
韓信、彭越、黥布は、漢の建国に欠かせなかった強者たちである。韓信は国土無双と呼ばれたほどの名将だったし、彭越、黥布はもともと項羽よりの武将であり、劉邦は彼らを味方につけたことで、形勢を逆転できた。
ただ、劉邦は、彼らを味方につけるため、広大な領地を与えねばならなかった。それは、漢建国後には新たな脅威となる。彼らに広大な領地と軍事力があるかぎり、漢王朝は権力を完全には掌握できない。劉邦は、彼らを亡き者にしようと画策しはじめる。
最大のターゲットとなったのは、韓信である。韓信は、劉邦の味方をするにあたって、大国・斉(せい)を要求していた。劉邦は、韓信にひとます斉を与え、その後、楚に移した。それで、韓信を封じ込めたつもりだが、それでも不安に苛(さいな)まされる。だからといって、韓信を討伐できるだけの武将が自分の手元にいないことはわかっていた。劉邦にできるのは謀略による韓信の逮捕だった。
劉邦が南方へ旅行に出かけたとき、韓信が出迎えた。韓信はわずかの兵しか連れていなかったので、劉邦はその隙をついて、韓信を捕らえてしまう。そのとき、韓信は「狡兎死して良狗烹(に)らる」と叫んだと伝えられる。「利用価値のあるあいだは、こき使われるが、不用となれば捨てられてしまう」という意味だ。
劉邦は、韓信を殺害するつもりはなく、楚王の座を取り上げ、淮南候(わいなんこう)という列候身分に落とした。列候身分の者は都に住まなければならなかったので、韓信はたえず監視下に置かれ、軍事的能力を行使しようにもできなくなってしまった。
ここにきて、韓信は絶望的な状況を悟った。韓信の心はすさみ、やがて反乱を決意する。その情報が劉邦側に漏れて、紀元前196年、韓信は捕らえられ、殺害される。