じじぃの「人の死にざま_1496_呂后(中国悪女)」

【閲覧注意】残虐。それでも惹かれる中国三大悪女まとめ 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=W-D68ps6VWU
1804年に出版された中国の刑罰の解説図 2008年01月21日 GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20080121_china_punish/
「日本の歴史的蛮行」は中国自身の伝統的行動であることを世界に発信せよ/櫻井よしこ 2015.03.02  良い国のニュース
(1)反抗的な態度をとった慰安婦の少女を日本兵が裸にして手足を縛り、くぎの突き出た板の上で転がして血だらけにし、最後に首を切り落とした。その遺体を煮て、泣き叫んでいた他の慰安婦に食べさせると言った。
前述の(1)くぎの板による無残な罰は、五代十国時代の●(びん)の国の軍使、薛文傑が考え出した刑罰から始まっていた。罪人をくぎの突き出た狭い箱に入れて揺らして死にいたらしめる刑である。また人肉食、罪人も幼子も殺して食べる事例は数限りなくといえるほど、資治通鑑に記されている。
(2)の蛇の池の罰も五代十国時代南漢という国の帝が考案した罰で、「水獄」と呼ばれていた。
慰安婦問題で日本批判の戦略戦術を立てているのは、実は、中国なのである。一方で、中国の実態は、現在習近平主席が挑戦する想像を絶する不正蓄財も、実は何千年来の中国の悪しき伝統であることが、資治通鑑によって明らかである。
http://soneaozora.jugem.jp/?eid=1812
呂雉 ウィキペディアWikipedia)より
呂 雉(りょ ち、? - 紀元前180年)は、漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。謚は高后(高皇后)。夫・劉邦の死後、皇太后太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。「中国三大悪女」として唐代の武則天則天武后)、清代の西太后と共に名前が挙げられる。

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『中国 かなりこわい闇の歴史---学校じゃここまで教えない!』 歴史の謎を探る会 KAWADE夢文庫 2011年発行
呂后の処刑法――夫の愛人に対して行なった、信じがたい処刑法とは (一部抜粋しています)
漢王朝は、韓信、彭越、黥布という邪魔者を片づけたが、それで闘争がやんだわけではなかった。今度は、女の闘争がはじまる。
漢の高祖・劉邦の死が、そのきっかけとなった。劉邦の皇后、呂后(りょこう)は、男まさりの性格で、ならず者集団である劉邦の配下には人気が高い皇后だった。しかし、劉邦は、呂后が産んだ後継ぎに不満を抱いていた。
さらに、劉邦の気持ちは、しだいに呂后から戚(せき)夫人に移っていて、劉邦は戚夫人との子である如意を皇太子にしたいと考えていたのだ。戚夫人もそれを望み、劉邦は如意を皇太子に立てようと動いたこともあるが、家臣らに止められてしまう。そのあいだ、呂后は戚夫人への憎悪をたぎらせていた。
劉邦の死は、呂后にとって、またとない報復の機会になった。呂后太后となり、その子が恵帝(けいてい)として即位する。彼女はすかさず戚夫人を捕らえ、丸坊主にして、胸に焼き鏝(ごて)を当てた。そのあげく、戚夫人を米つき女の身分に落とした。
なおも、呂后の感情はおさまらず、戚夫人とその子・如意を始末しようと画策するが、恵帝にはやさしいところがあり、それを許さなかった。
呂后は、恵帝が狩りに出たところを見計らい、戚夫人と如意への”最終処理”を実行した。まず、如意を毒殺したのち、戚夫人の手足を切り落とした。さらに、目の玉をえぐり、声をつぶす薬を飲ませ、耳も聞こえないようにした。その状態の彼女を便所に置き、「人豚」とよばせたのだ。
恵帝は当初、その肉の塊を見たとき、それが何なのかわからなかったという。しかし、ある日、それが戚夫人であると知って、激しいショックを受けた。
「これは、人のすることではない。私には太后の子として天下を治めていくことはできない」と嘆き、酒色にふけるようになった。自暴自棄となった恵帝は、その7年後に死亡する。
代わって皇帝になったのが、恵帝の子とされた小帝恭である。ところが、小帝恭は、呂后がかつて小帝恭の実母を殺害していたことを知る。小帝恭が呂后を憎むようになると、呂后は小帝恭を獄に閉じ込め、暗殺してしまう。
これで呂后の暴走はいよいよ止まらなくなった。幼少の皇帝をたてて傀儡(かいらい)とし、呂后一族で政権独占し、劉邦の一族を次々と殺害した。