じじぃの「歴史・思想_242_中国古代史・儒教の国教化をめぐる諸説」

三国志の人々の精神に影響を与えた論語(ろんご)って何?

はじめての三国志 - Part 2
三国志の主人公達も、論語を実践した
三国志の主人公達は、その殆どが儒教を学んだ人々です。
ですから、物語を見ていくと、例えば劉備は仁を実践して民を大事にし、孔明は、義と礼を重んじて、刑罰を厳しくしつつも、正しい判断を降せるように努力をし蜀の民に慕われました。
忠は、関羽(かんう)をはじめとして、孔明も、ホウ徳も関羽も多くの名将と呼ばれる人々が持っている特徴です。
孝は父を殺された曹操陶謙への激しい復讐心や、曹操を救い、自らは殺されてしまった曹昂にも当てはまります。
https://hajimete-sangokushi.com/2015/11/05/post-6983/2/#i-3

三國政権の構造と「名士」2009/1 渡邉義浩 (著) Amazon

この研究書は、後漢から三國時代にかけて、貴族の前身となる「名士」という独自階層の特質を明らかにし、「名士」が三國政権にどのように関わり、またどのように貴族へと変貌を遂げるのかを、現存する歴史資料と、膨大な学術論文を取り上げて論証しています。
特に、蜀漢政権の構造から浮き彫りになった劉備諸葛亮の関係や、曹操の国家支配理念が後漢の「寛治」から、「猛政」へと移行したことにより、「名士」の支持を得たことは必見です。また、本書後半の付表には、参考文献のリストが整理されていたり、三國政権の中枢要員を、政権の前期・中期・後期により区分けし、人目で出身地や、名声がわかるようになっています。只、あくまで研究書なので、漢文やある程度の三国時代の予備知識が無ければ厳しいです。初心者は、先ずはナツメ社の図解雑学『三国志』を読むことをおススメ致します。

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三国志 - 研究家の知られざる狂熱』

渡邉義浩/著 ワニブックスPLUS新書 2020年発行

儒教の国教化をめぐる諸説

世界史の教科書では、前漢武帝期に儒教が国教化されたと『漢書』に従って書かれていましたが、それに敢然と立ち向かっている方々がいました。一人は先輩にあたる平井正士先生、もう一人は師と親しい福井重雅先生でした。
おふたちの努力もあり、「儒教の国教化」の時期については、定説であった前漢武帝期のほかに、①前漢元帝期・②王莽期・③光武帝期・④章帝期が挙げられていました。

後漢儒教国家」の成立

光武帝は、讖緯(しんい)書の選別と経義の整備を行いながら、公孫述(こうそんじゅつ)を打倒して中国を統一すると、高帝(高祖劉邦)を配食(天とともに祭祀)する増祀を行うなど、祭祀の改変を続けました。
板野説(③光武帝期を「儒教の国教化」の時期とする板野長八説)の重視する図讖の宣布は、経義より先に整備が完了した讖緯書を公開したものと考えてよいでしょう。第2代明帝は、さらに祭祀の改変を継続しています。
こうした後漢の国制に則した経義の整備は、明帝期の改革を踏まえて、第3代の章帝が主宰する白虎観(びゃくこかん)会議にまで持ち越されました。
その結果、思想内容としての体制儒教の整備は、後漢の④章帝期に完成します。このころには、「儒教の国教化」の主要な指標も満たされています。わたしは、博士論文において、「儒教の国教化」の時期を④章帝期に求めることにしました。
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後漢儒教の話が続き、だいぶ三国志からは離れてしまいました。
ここまでお付き合いいただいたのは、「三国志」の時代は184年の黄巾の乱から始まり、後漢曹丕に滅ぼされる220年までは、後漢儒教国家」が続いていたからです。すなわち曹操は、儒教が国教であった時代しか生きておらず、荀彧(ジュンイク)も諸葛亮儒教を勉強して知識人となったのです。
したがって、わたしは「儒教がわからなければ三国時代を正確に分析できない」と考えています。
このため、わたしの儒教研究は今に至るまで続いており、博士論文の継承としては、後漢儒教国家」における儒教の展開を明らかにした『後漢における「儒教国家」の成立』(汲古書院、2009年)を出版しました。

寛治から猛政へ

曹操の生きた時代が後漢儒教国家」であったことを把握していれば、曹操による法律と刑罰の重視は、法家思想によるとは簡単に規定できないはずです。
ところが、中国では文化大革命と批林批孔運動(毛沢東の地位を狙ったとされる林彪(りんぴょう)と封建思想を確立した孔子を批判して革命を継続する運動)を背景に、曹操を法家としていました。
曹操による法律と刑罰の重視は、突然始まったものではありません。曹操が自らの理想とした後漢の大宰相橋玄(きょうげん)も。法律と刑罰を重視していました。それは、後漢の寛治(かんち)と呼ばれる統治方法への反発でした。
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曹操の猛政を支持した荀彧は、さらに一歩進んだ肉刑復活論者でした。