じじぃの「歴史・思想_243_中国古代史・三国志と邪馬台国」

わかりやすい歴史【邪馬台国

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魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書) 2012/5 渡邉義浩 (著) Amazon

考古学調査と並び、邪馬台国論争の鍵を握るのが、「魏志倭人伝」(『三国志東夷伝倭人の条)である。
だが、『三国志』の世界観を理解せずに読み進めても、実像は遠のくばかりだ。なぜ倭人は入れ墨をしているのか、なぜ邪馬台国は中国の東南海上に描かれたのか、畿内と九州どちらにあったのか。『三国志』研究の第一人者が当時の国際情勢を踏まえて検証し、真の邪馬台国像に迫る。「魏志倭人伝」の全文と詳細な訳注を収録。

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三国志 - 研究家の知られざる狂熱』

渡邉義浩/著 ワニブックスPLUS新書 2020年発行

4.邪馬台国 より

日本に対する最古のまとまった記録として尊重される「魏志倭人伝」とは、『三国志』巻三十 東夷伝 倭人の条のことです。
魏志倭人伝」の読み方をめぐる論争で、わたしが最も気になったのは、国々の存在を記す距離や方向を現実の日本列島に当てはめ、ゆがめて解釈していることでした。
日本に関する記録であっても、日本のために書かれた記録ではないので、日本に都合よく読むのではなく、『三国志』の文脈の中で読むべきなのです。
そもそも中国の正史のなかで、異民族に関する記録として日本の記録が最も多い史書は『三国志』です。『三国志』は日本を特別視して記録を残しているのです。
なぜ、特別視したのか、そこから考えなければ、邪馬台国の真実に近づくことはできないでしょう。
特別視は、陳寿が仕えた西晋の建国者である司馬炎の祖父、司馬懿遼東半島を征服した結果として、朝貢した国が倭国であるという理由によります。朝貢とは、夷狄の君主が、中華の文徳に教化されて臣下となり、貢ぎ物を捧げて世界の支配者である中華の皇帝のもと、地域を支配する国王として封建されるために使者を派遣することです。
陳寿は、倭国朝貢させた司馬懿を高く評価するため、あらゆる知識を動員して倭国を好意的に描いているのです。
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卑弥呼の来貢は司馬懿の功績、これが司馬懿の孫司馬炎が建国した西晋の公式見解なのです。日本に関する最初の本格的な記録である「魏志倭人伝」は、諸葛亮の陣没による司馬懿の台頭と遼東遠征を契機に生まれたのです。

虚構と真実

邪馬台国は、司馬懿朝貢させた国です。その重要性は、曹真が朝貢させた大月氏国(イラン系遊牧民の国)により上でなければなりません。この理念が、邪馬台国を会稽郡東冶県の東方海上という、孫呉の背後に位置づけさせました。
曹操は、赤壁の戦いという水戦で孫権に敗れています。それにもかかわらず、西晋孫呉を滅ぼしたとき、孫呉海上に逃れられませんでした。なぜなら、司馬懿朝貢させた邪馬台国がその背後に存在するためであった、としたいのです。理念を強く帯びた記述と、事実の記載の混在するところが「魏志倭人伝」の読みにくさの理由なのです。
たとえば、入墨(鯨面・文身)から衣類・髪型・織物に始まり、鳥獣・兵器・衣食・葬儀・持衰(じさい、航海の安全を祈る者)・占い・飲食・寿命・婚姻に至る倭の地誌が記される部分のうち、持衰は他の漢籍に記載がありません。これにより、報告書などに基づいた事実の記載であることがわかります。
これに対して、倭人の習俗として有名な鯨面・文身(顔の入れ墨と身体の入れ墨)は、儒教経典に基づく裏面の記述と考えられます。
当時の世界観を形成した経典の1つ『礼記』王制篇には、東方の異民族である「夷」は身体に、南方の異民族である「蛮(ばん)」は額に、それぞれ入れ墨をしているとしています。倭は、孫呉の背後、つまり中国の東南に位置する異民族であるため、身体(東)と額(南)に入れ墨をしているべきなのです。
ちなみに『三国志東夷伝馬韓の条」には、男子が身体に入れ墨をしていると記述されています。韓族は東夷です。したがって、入れ墨は身体だけにあるべきなのです。
また倭は、7万余戸邪馬台国をはじめ、記載された国々を合わせると約15万戸から成る大国と記されています。遼東半島から朝鮮北部を支配した公孫氏が滅亡した際、接収された戸が4万であったことを考えますと、いかに大国として描かれているのかを理解できるでしょう。倭が、「戸十万」とされる大月氏国を上回る大国であることを示す必要性から生まれた理念の記述だからなのです。
さらに『後漢書』西域伝によれば、大月氏国は洛陽から1万6370里の彼方にありました。儒教理念は、異民族が遠くから朝貢すればするほど、中華の君主の徳が高いとします。
邪馬台国が、洛陽から1万7000里(洛陽から帯方郡が5000里、帯方郡から邪馬台国が1万2000里)の彼方にあるとされている理由です。
魏志倭人伝』の記述は、すべてが事実に基づくわけではありません。そこには、卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(ゆがんだ記述)が含まれているのです。
とはいえ倭人伝には、3世紀の日本の現実を直接見聞きした使者の報告書に基づく貴重な記述も含まれます。邪馬台国から曹魏への朝貢は、約10年間で4回にも及びます。平均すると約18年に1回であった遣唐使のころに比べても、日本と中国が密接な関係を持っていたことがわかります。
曹魏と倭との関係は、諸葛亮の陣没により生まれました。諸葛亮卑弥呼、互いにその存在を知ることがなかった同時代人は、陳寿の『三国志』によって結びついているのです。われわれ日本人は、「三国志」を通じて、古くから中国と密接な関わりを持っているのです。