じじぃの「科学・芸術_168_邪馬台国・卑弥呼・地位・身分説」

知恵泉邪馬台国古代ミステリー(2)女王卑弥呼の謎 動画 dailymotion
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 『魏志倭人伝』の一節

卑弥呼誕生: 彼女は本当に女王だったのか? 遠山美都男 洋泉社 2011 Google ブックス
卑弥呼が女王だったことに全く疑いを持たなかった日本人。
魏志倭人伝』の冷静な史料批判からは、彼女が「女王」だった証拠は出てこない!果してその正体は。

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先人たちの底力 知恵泉 「邪馬台国はどこにある? 古代ミステリーを楽しもう」 2017年5月9日 NHK Eテレ
【司会】二宮直輝 【出演】石田衣良(小説家)、村井美樹(女優)、吉村武彦(明治大学名誉教授)
邪馬台国探しの旅に出た二宮アナ。北九州や出雲から見えてきたのは、稲作をするムラの集まりという弥生時代のイメージを覆す、ダイナミックな日本の姿だった。
さらに、邪馬台国の最有力候補地のひとつ奈良の纏向(まきむく)遺跡からは、不思議なことに畑や田んぼ、農具など、生活必需品がほとんど見つかっていない。そこから導き出さた驚きの結論は「邪馬台国という国はなかった!?」。
九州岡山・吉備出雲北陸そして東海。それらに囲まれた近畿にある奈良県纏向遺跡
ここに女王卑弥呼の治める強大な王国 邪馬台国があったのでしょうか。
ところが発掘が進むにつれ纏向遺跡には他の王国とは明らかに違う不思議な点があることが分かってきました。
纏向からはどの遺跡からも必ず出土する生活に不可欠なあるものが見つかっていないのです。
卑弥呼という名前の持っている意味を考えるとこれは、卑弥呼とは「ヒメミコ」「ヒメミコト」という女性の尊称。
つまり、「倭人伝」を綴った中国の人がそれを人の名前だと誤解したのではないかと、歴史学者の遠山美都男さんは推測します。
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/x/2017-05-16/31/8127/1494154/
天皇誕生―日本書紀が描いた王朝交替』 遠山美都男 中公新書 2001年発行
神功皇后卑弥呼である」? (一部抜粋しています)
日本書紀』は、オキナガタラシヒメこと神功皇后が、『魏志倭人伝に見える女王・
卑弥呼(ひみこ)のことであるという解釈を示した最初の書物であった。すなわち、摂生39年・40年・43年を三ヶ条に引かれているのは、いわゆる卑弥呼に関する『魏志倭人伝の記述であり、最後の摂生66年条は、卑弥呼の跡を継いだといわれる台与(とよ)に関わる「晋の起居注」(起居注とは、皇帝の日常の言動に関する記録。王朝の歴史を編纂するさいの資料になった)の記載である。
日本書紀』の編纂者はたしかに『魏志倭人伝を読んでおり、そこに見える女王・卑弥呼の生存年代が、『日本書紀』のなかで設定された神功皇后の生存年代と大体において合地すること、それに加えて、『魏志倭人伝に記された卑弥呼が「鬼道」という呪術・祭祀に関わる女性であり、神功皇后も巫女としての能力をもっていたと伝えられていたことなどから、「卑弥呼神功皇后説」を確信するに至ったようである。また、『日本書紀』編纂者がわざわざ『魏志倭人伝を持ち出してきて、神功皇后卑弥呼であるなどと主張したのは、『魏志倭人伝を書いた中国や中国人というものを過剰に意識していたためではないか、と思われる。
ところで、たしかに卑弥呼神功皇后は、外見上大変よく似てはいる。
しかし、まず、卑弥呼とは一般的にいわれているような邪馬台国の女王ではなく、『魏志倭人伝のなかでは、邪馬台国をはじめとした数十の国々より成る倭国の女王とされていた。つぎに、卑弥呼というのは女王の個人名というよりは、特定の女性が就任する地位・身分の呼称と考えるべきである。
残念ながら、初代卑弥呼の名前は不詳であるが、2代目卑弥呼の名前は『魏志倭人伝に採録されていて、それは台与といった。卑弥呼が地位・身分の呼称、いわば職名であることは、すでに早くから指摘されていたのであるが、いまだに学説としての市民権を得ていない。日本人はどうしても、日本の黎明期に卑弥呼という名前の女王がいたことにしたいようなのである。そして、『魏志倭人伝によって、その卑弥呼が君臨したという邪馬台国の所在を探し出すことが可能であり、それが日本人にのこされた最後の最高のロマンだと信じて疑わない。こうなると、学問を超えた思い込みの世界としかいいようがない。
さて、この卑弥呼という地位・身分に関してさらにいうならば、それは女王の地位・身分をあらわす呼称ではなく、倭国王(男性)の近親女性でシャーマンとしての資質にすぐれた者が就任し、倭国王の正当性を宗教的に保証した地位・身分のことなのではないかと考える。『魏志倭人伝に描かれた卑弥呼は、その存在形態や、彼女を縛っている種々のタブーの在り方などからいって、倭国内部の行政に関与できるような立場にはなく、彼女はあくまでも「鬼道」という祭儀にのみ奉仕する巫女だったようである。そもそも、シャーマンとしての資質が卓越しているという理由だけで最高首長に擁立された女性の実在をたしかめることは極めて困難なのである。
この卑弥呼という地位・身分は、、2世紀の後半に起きた最初の倭国大乱の後に、統一が成った西日本一帯を支配する倭国王邪馬台国王がえらばれた)の地位を宗教的に支えるたために創出されたものであった。そして、3世紀半ば頃の2度目の倭国大乱の後、西日本に加えて東海・中部地方が新たに倭国王の統合に加わるようになると、卑弥呼とよばれる役職はその姿を消し、新たな政治的統合のシンボルとして創造された前方後円墳をはじめとした巨大な墳墓(古墳)とその祭儀に取って代わられることになった、と考えられる。
要するに卑弥呼とは、第1次倭国大乱と第2次倭国大乱のはざまにのみ存在し、その間の倭国王の政治的支配を宗教的に支えた、この時期に固有の地位・身分であったということである。
魏志倭人伝がその地位・身分を女王と断じて疑わないのは、中国人のもつ中華思想という独善的・自己中心的な世界観にもとづく誤解と偏見以外の何者でもないと思われる。中国人は、中国か遠ざかれば遠ざかるほど、中国の文化や習俗とは程遠い未開・野蛮の文化・習俗があるに相違ないと考えており、女性の君主を戴くことなどは未開・野蛮の象徴と見なしていたから、中国から見て遠方にあるとされた倭国が女王を戴いていることは、かれらの独善的な世界観に合致し、それを満足させるものだったのである。