じじぃの「科学・地球_216_データサイエンスが解く邪馬台国・はじめに」

【ゆっくり解説】邪馬台国シリーズついに完結!? 邪馬台国の場所はズバリここだっ!

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=H9RcFp7PrRw

朝日新書 データサイエンスが解く邪馬台国―北部九州説はゆるがない

安本美典(著)
数理統計学の手法でデータを読めば、明解!卑弥呼のみやこは99.9%福岡県に。
はじめに
第1章 データサイエンスとの出合い―探究60年の旅
第2章 邪馬台国問題をデータサイエンスで解く―そんなに、むずかしい問題なのか?

              • -

『データサイエンスが解く邪馬台国―北部九州説はゆるがない』

安本美典/著 朝日新書 2021年発行

はじめに より

最近、奈良県を中心とする近畿で、長年考古学研究にたずさわって来た方々により、邪馬台国は九州にあったとする見解が、相次いで発表されている。
2020年の2月に、奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所の企画学芸部長の坂靖(ばんやすし)氏著の『ヤマト王権の考古学』(新泉社)が刊行された。
坂靖氏は、「邪馬台国大和説」と「邪馬台国北部九州説」との要点を紹介したのち、次のように述べる(引用文にも読みやすい便宜振り仮名を付した)。
 「私は、後者の邪馬台国北部九州説にたつ。
  これまで述べてきたとおり、弥生時代中期から後期の近畿地方においては中国との直接交渉を示す資料はほとんど知られていない。楽浪系土器は北部九州に集中し、松江市以東はまったく認められない。」
 「邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏(ぎ)と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第1候補とされる纒向(まきむく)遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。」
 「さらには、女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が1人いただけであり、そこに宮室・桜観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纒向遺跡にそのような場所を認めることはできない。」
    ・
すでにいまから16年前の05年に、前・奈良県桜井市教委文化財課長(当時)の清水眞一氏は、次のように述べている。

大和には”巨大なムラ”がない

 「私は20年間、大和の中央部・桜井市で、『邪馬台国は何処』とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような『ムラ』や『墓』が見られないことに気付いた。
 代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や田能遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
 であれば、その次の古墳時代に入って、纒向の地に百メートル以上もの巨大な古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況であるとみた。
 では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。」(『佐賀新聞』2005年9月26日付)
同じ紙面で関西外国語大学教授の考古学者、佐古和枝氏も、次のように述べる。
「『魏志倭人伝では倭人の武器に矛(ほこ)や鉄鏃(てつぞく)が挙げられている。この時期、畿内には矛に相当する武器はないし、畿内の鉄器の出土総数は、北部九州や山陰の一遺跡の出土数にもおよばないほど貧弱である。
 さらに、諸国を監察する『大率(だいそつ)』が伊都国に常駐すること、女王国の東に海を渡ると倭種の国があることなどをみれば、『魏志倭人伝のいう『倭人』や『倭国』、『女王国』は北部九州社会のことと考えるのが妥当であろう。東の海の向こうにいる倭種の話ではないから(『倭人伝』)。そう考えれば、『倭国乱』も『邪馬台国』も、北部九州での事柄だということになる。
 邪馬台国の所在地は、考古学的な事実関係と『魏志倭人伝との整合性のなかで考えるべきである。」
このように、いまから16年前と現在とで、基本的な状況は、とくに、変わっていない。この間に、奈良県から、邪馬台国など倭と倭人について記した古代中国の史書三国志』の中の『魏志倭人伝』の記述と結びつく特別の遺物・遺稿が、新たに出土したという事実はない。
以上に紹介した方々のほか、三重大学の教授で、以前は、奈良国立文化財研究所の主任研究官であった考古学者、小澤毅氏や、奈良県橿原考古学研究所の企画部長であった考古学者、入倉徳裕氏なども、邪馬台国九州説の立場をとっておられる。
このようにみてくると、奈良県などで、実際に発掘にあたった考古学者で、「邪馬台国九州説」の立場をとっておられる方々は、けっしてすくなくない。