じじぃの「歴史・思想_241_中国古代史・毛宗崗本の『三国志演義』」

三人の皇帝が現れた「異様」な時代

2020年4月4日  Yahoo!ニュース
あえて本当に、ひとことで言い表すとすれば、今から1800年ぐらい前の紀元200年代、中国大陸が三つの国に分かれて争っていたというものだ。
それが魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)という三国のことで、それらの国々について、まとめた歴史書のことが『三国志』である。
その三国を創業したトップの人間が、魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)である。
彼らがそれぞれに「皇帝」を名乗って「三国」が並び立った状態が、だいたい40年(西暦220年~263年)続いた。
美しいヒゲを生やした武将、関羽(かんう)関羽は敵将の首をはねて戻ってきたとき、出陣前に出された酒がまだ温かかった、という逸話が知られている。彼は後世、横浜中華街などに廟があって「関帝」としてまつられている。それぞれ小説『三国志演義』の名エピソードだが、それと似たようなことが「正史」にも記されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3f1fe9ad00968fe7d6f879b8981fe8eeb2625e5b

三国志 - 研究家の知られざる狂熱』

渡邉義浩/著 ワニブックスPLUS新書 2020年発行

3.『三国志演義』 より

わたしは、筑波大学の7期生にあたります。生まれて初めての独り暮らしをした当時は、まだ常陸野の面影が残り、歩いて行ける外食屋さんも限られていました。そんな環境のなか、本ばかり読んで暮らしていました。とりわけ、平凡社の「中国古典文学大系」という全60巻の叢書は、読みごたえがありました。
この叢書は、中国近世の白話小説が充実しています。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』の「四大奇書」(世に稀なほど優れた4つの小説)をはじめ、『紅楼夢』などの長編小説が収められているからです。すべて読了しましたが、結局『三国志演義』が一番おもしろいと感じました。日本では、『水滸伝』や『西遊記』も人気なのですが、創作部分が多すぎるように思え、物語世界に没入できませんでした。
三国志演義』は、横山『三国志』や吉川『三国志』と比べたとき、関羽の特別視が気になりました。
東京の南、大田区で生まれ育ったので、横浜にはよく出かけました。今のように巨大ではありませんが、中華学校の片隅にあった関帝廟も見ています。関帝への信仰は知っていましたが、諸葛亮を押し退けるような関羽の特別扱いは、どうにも鼻につきました。
中国近代小説の祖である魯迅も、『三国志演義』の中で関羽の義が最もよく描かれる「義もて曹操を釈(はな)つ」の場面に、同様の感想を述べています。
赤壁で敗れた曹操は、退路を予測していた諸葛亮の伏せた趙雲(ちょううん)・張飛によって散々に打ち破られ、華容道(かようどう)で関羽待ち伏せにあいます。兵が疲弊の極にあった曹操は、死を覚悟しました。
ところが程昱(ていいく)は、かつて関羽にかけた恩に縋るべきだと勧めます。
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魯迅は、『中国小説史略』のなかで、「諸葛亮は、曹操がそれで滅びる運命ではないと察知したので、わざと関羽に華容道を警備させておき、しかも、わざと軍法で迫り、軍令状という誓約を立てさせて派遣した。この諸葛亮の描写は、亮を狡猾に見せるだけだが、その結果、関羽の気概は凛然としている」と述べています。
魯迅は、諸葛亮を狡猾に見せる逆効果を生みながらも、関羽の気概を凛然と表現することを『三国志演義』が優先させたと言うのです。なぜ、それほどまでに関羽を尊重するのでしょうか。
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人物像を一貫させた毛宗崗本

毛宗崗本の成立は、清の康熙(こうき)5(1666)年以降とされます。毛宗崗本は、李卓吾本の記事や文章の誤りを正し、不合理な記事を削除し、三国の物語を新たに挿入し、自らの批評を加え、物語の首尾一貫を整えて、『三国志演義』の面目を一新しました。
仙石知子『毛宗崗批評「三国志演義」の研究』(汲古書院、2017年)によれば、毛宗崗本の特徴は、人物像を一貫させたうえで、「義絶」の関羽、「智絶」の諸葛亮、「奸絶」の曹操という「三絶」を物語の中核に据えているところにあります。
主人公である劉備を「仁」の人として物語の中心に置き、聖人君子とすれば、対置する「奸絶」曹操が際立ちます。同時に、「義絶」関羽・「智絶」諸葛亮の活躍も描くのです。「三絶」それぞれの役割を定め、とりわけ「義絶」関羽は、忠義に加えて利他の義・男女の義など、さまざまな「義」を体現している特別な存在として描かれています。
毛宗崗本には、細部に至るまで綿密な表現をめぐらし、社会通念を利用することで叙述に説得力を持たせる、という特徴もあります。諸葛亮に代表される漢への忠義は、貂蝉などの女性の表現に至るまで行き届いています。
あるいは、曹操を異姓養子の子と批判しながらも、史実の劉備が異姓養子の劉封を迎えていることについて、社会通念を背景としつつ、李卓吾本よりも劉封を貶める表現を用いて説明を加えています。
仙石の分析によれば、毛宗崗本は、仁・義・智・孝・忠など朱子学の規範を根底に置きながらも、その時代を生きた知識人層と商人の上層部が共感する時代風潮を表現しています。さらに朱子学が社会に受容されていくときに生じる柔軟な解釈や、朱子学だけでは埋まらない信仰などへの共感が、毛宗崗本を決定版へと押し上げたのです。
また、毛宗崗本は、史実を重視して荒唐無稽な記述や史詩の一部を削除しました。たとえば、李卓吾本が受容された日本には伝わる、次のような「漢寿亭侯(かんじゅていこう)」の物語は削除されています。
関羽は、曹操のもとで功績を立て、寿亭侯に封じられましたが喜びません。それを聞いた曹操は、「漢」の文字を追加して、漢寿亭侯とします。関羽は、曹操が自分をよく理解してくれていると喜んだ、という話です。関羽の漢への忠節と曹操関羽理解を表現した良い虚構だと思います。
ところが史実では、関羽は「漢寿」という土地に封建された「亭侯」なので、漢の文字を後から足したという物語は史実に反しています。そのために削除されたのです。ただし、毛宗崗本がすべての虚構を廃したわけではありません。
わたしには、物語を史実に近づけた毛宗崗本のほうがしっくりきます。ほかの「四大奇書」の壮大な虚構が鼻についたように、虚構よりも事実に、文学よりも史学に興味関心があるからです。