宦官に担がれた神興に乗る西太后
西太后
Wikipedia より
西太后(せいたいこう 1835年11月29日~1908年11月15日)は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人のイェヘナラ氏の出身。
【日清戦争以後】
同治、光緒両帝の在位期間、西太后は宮廷内に於いて権力を掌握した。表の政治においては、恭親王奕訴近く洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚が重責を担った。洋務運動がある程度の成果を上げていた期間は同治中興と呼ばれる。
日清戦争の敗戦と光緒帝の実質的な親政開始に伴い西太后は政治から身を引くことを表明したが、朝廷への上奏のうち重要印がある物は総て西太后の元へも回され、また光緒帝の発言や動向を宦官に報告させ、重要施策についての懿旨を単独で出すなど依然として権力を持っていた。
1896年には西太后の寵愛する寇連材という宦官が、政権の返還・光緒帝の親政を見守る事・円明園の修改築凍結・海軍経費の頤和園への流用即時停止などを意見したが、西太后はこれを刑部へ送り処刑している。
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『死ぬまでに観ておきたい 世界の写真 1001』
ポール・ロウ/著、小川浩一、竹村奈央、風早仁美/訳 実業之日本社 2019年発行
宦官に担がれた神興に乗る西太后 より
撮影者 未詳
撮影年:1903年
撮影地:北京、中国
フォーマット:不明
この写真に写っているのは、中国の皇太后である西太后が、従者の宦官や延臣たちに運ばれているところである。西太后は1852年に侍女として後宮に入ると、すぐに咸豊帝の「妃(きさき)」になった。咸豊帝がなくなると、彼女は甥を光緒帝として即位させ、清王朝の権力を掌握し続けた。
この写真には、宮廷の伝統にこだわる西太后の姿が描かれている。現代的なものに少しは譲歩する必要を感じていた彼女は、自分が延臣たちとともに写真に撮られることを許可した。とはいえ、明らかに古いしきたりも残っている。西太后を天候から保護するために掲げられた儀式用の大傘、彼女が吸う空気を浄化するために焚かれた香炉。さらに宦官たちは幸福と繁栄を象徴する礼服を身につけている。西太后は奇妙な見た目の厚底靴を履いている。これはなぜかというと、満州族の女性は纏足を禁じられていたが、中国の男性は束縛されていない足を嫌がると言われていたので、彼女はおぼつかない足取りに見えるようにしているのだ。
1908年に西太后が亡くなると、中国は混乱の時代に突入する。その混乱は、中国共産党が誕生し、1949年に毛沢東が中華人民共和国を宣言するまで続いた。
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